セーナー苑務めて(8) 得たこと・納得できない事

セーナー苑での39年間(8)

5年前に 障害の子供を持つ保護者の強い働きかけで開設されたばかりのセーナー苑(大沢野町坂本・現富山市)に就職しました。 保護者の中には、こういう子達がいるから、あなた達が働けるのです。というものの考え方の人、実際口にする人もいました。

 

初任給は、1万8千円でした。これに宿直手当・苑生がいなくなると呼び出しがあり(東富山から大沢野まで タクシーで)、ゴルフ場や墓地の中(皆、怖がりいつも私 1人で入る。 変なおじさんがいたら大声を出すから来てネと言って)を探し回った。代休はなく、手当が加わり、 3年前に就職していた幼稚園教諭の姉の給料を かなり上回っていた。

 

更に「学生時代、姉には2万円~2万5千円送くっていた。 使い果たし、再仕送りをしてくると思い 少なめにしたが よくやりくりをした。 給料は、家に入れなくていい。全部自分で管理していい」と。

 

マイクロバスは、富山駅から苑まで送迎。交通費は、駅までの人と、運行中のバスまでしか 支給されていない。バスは、日・祭日・土(Pm5:30)は、出ませんでした。そして新採の私達は、勤務が多かった。 みんなは、富山駅までタクシーで。 私は断って、地鉄バスで帰った。 そして守銭奴と言われた。

私は、職員の結婚・出産祝いに、皆と一緒に出し合い、他に手作りのショールやベビー服を編み(テレビを見ながら、編んでいる。金銭的にも安く負担にならい。) 喜んでもらえればとプレゼントをしていました。

 

勤務は、1か月の勤務表が出る。日勤がAM8:30~PM6:15まで、宿直は、AM8:30~翌日9:15頃まででした。

 

昼、交代で指導食というものがあり、苑生と一緒に食事を摂りながら苑生の摂取量の把握・薬の服用把握・掃除・トイレ・歯磨指導があり、食事代は、無料。

 

指導員にも、食堂に職員の名簿の紙を張り、希望者はO印をつける。(勿論有料)。偏食の激しい私は、弁当を持参。  宿直の日も昼・夕・夜食の弁当を3食 持参していた。誰かが、私の勤務表を見ながら印をつけたのでしょう。 1食も食べていないのに 更に指導食事の数まで 給料から引かれていました。 事務所に行ったら、来月にと。入金なく、栄養士さんのところに行くようにと。分らないと無視される。私は、事務職員か?・厨房に関わる職員のいずれかと思っています。(指導食という業務を知らない人) 

結局、お金は、戻りませんでした。

 

1年目、私の仕事は、白樺寮の掃除・洗濯・繕い物等の雑務をこなし、手のかかる苑生は、寮に置いてきぼり。その苑生への声掛け。先生と苑生との関係ではなく友達感覚で

接した。先輩の木谷先生に「今までにない先生だ・・・・」と 褒められた。

 

当直は、1度目、先輩と一緒に 当直し仕事を覚える。2度目からは、1人で。

 

宿直室に薬を取りに行っている時に 島さんが椅子をガラス戸に向かって投げつける。そばのテーブルの上の2人分の食事にガラスの破片が入った。島さんと私と2人で片付け、2人分の食事を移す。島、自分のご飯に入っていないのにと怒りだす。逆の立場を話すと「分かったチャ・分かったチャ」と。

PM9:00みんな就寝した後、島さんを起こし、持参の弁当を2人で食べる。椅子を投げた理由は先生に𠮟られた からと。 その後も、何度も𠮟っては、 帰っていく先輩がいた。

その都度、私に当たり散らしに来る。可愛いと思った。 

それから「洋子ヤ・洋子ヤ」と呼ぶようになった。そしてある時、「何で、洋子ヤ・洋子ヤと呼ぶがヨ?」と荒い口調で言ってくる。又𠮟られたらしい「可愛いから」と 「・・・・・・・・・」

「洋子ヤ・洋子ヤで、いいチャ」と。了解を得た。やはり可愛い。

 

<登山を楽しむ>

姉から、登山要具が揃っている。どこに登ったのか、聞かれ話す。2人で登山(山道)をすることに。立山・室堂までバスで行き、薬師岳に向かって歩き、登らずに左手に見ながら薬師沢に行き宿泊。水晶岳(?) を通り雲ノ平で宿泊予定。水晶岳には、自然の温泉があると聞き、雲ノ平を通って水晶岳で宿泊に変更。従業員に連れられて露天温泉の手前へ、白い旗が掛けられていた。「今、男の人が入浴中。旗が下ろされたら赤い旗を掛けて入ってください」。 露天温泉は、綺麗に作られていた。薬師沢へ行く途中 左の細い道に入って水晶池に行くように進められる。水晶池の周りは、山・山・山 そこに立つと、池には私達・山・空が、凄く綺麗に映し出されていた。

 

それから登山にはまる。職員の中にも山登りの好きな人がいた。富山ローザンに入り、

年5・6回は 登った。登山中は、何ともなかったが、下山し、一晩 家で 寝ると全身が、むくみ、息も絶え絶え。母は、体力以上の事をしているのではないかと心配した。1日余裕を持って休みをとるようになった。北アルプスのほとんどを制覇し、2・3回登った山もある。

 

 

11月、財政が無いと全員給料が当たらなかった。市の執行職員(総務部長)が、財団法人から社会福祉法人に変更手続きをされた。12月に全額支給され、更に差額(ボーナス程の額)が支給されるようになった。

 

 

 

2年目から 私達が、こなしていた雑務を担う(指導員助手)という職種の方が 採用され、入所者の本格的な指導が始まりました。

私は、基礎班担当。病気でない限り、声掛けして全員教室に連れていく。そして、苑生の良いところを言って誘導・注意した(木谷先輩から得た指導方法です)。

昼食は、グループごとに、 男子寮(若竹)で、食事を取る。私の後ろから男子苑生(四十竹君)が来て、頬にキスをして「キャ・キャ」と笑って逃げていく。男子職員が四十竹君を連れて来て「先生に、何をした。先生達でさえ出来ない事を」「・・・」面白がっている。

又、男子職員は、木谷先生のことを木~谷先生と言う理由を聞く。 いつも キー・キーと怒っているからと。

私は、先生の良いところを話し、尊敬していることを。 𠮟られた苑生も尊敬しており、素直に聞き入れていると。それから「木~谷先生」と耳にすることはなくなった。私は、毎日が楽しかった。

職員で1泊・日帰り旅行にもいった。北アルプスにも登った。毎日が楽しかった。

 

 

新寮長(折井先生)が、五月の勤務表を作るにあたり、みんな公平な条件で勤務が出来るよう 下案を作ったところ、先輩から 日・祭日の勤務が多いと文句を言われたらしく、悩んでおられる様子。私は、今までと同じ勤務でも構わないと慰めた。

 

 

この勤務ダイヤをうまく利用して、東京へ(0泊1日)行く。従弟が務める生地の問屋へ行き、 素敵な生地を買うのが目的でした。以前、仕立ててもらっていた近所の内山さんに、ワンピース・ベルベットのドレス・ガウン・ウエディングドレス等を作ってもらいました。

姉・私・弟の奥さんは、いずれも、東京で買ってき白地の上に白糸で刺繡された光沢のある布地で、仕立てた シンプルなデザインのウエディングドレスを着た思い出があります。

 

テレビで、「風と共に去りぬ」・「橋のない川」を放映。本は、テレビでは、見られない内情が、よく分かった。又、徳川家康太閤記等を読む事によって歴史上の事は、分からないにしても、その人なりを知ることができた。それから本を読みあさった。列車の待ち時間も惜しんで読んだ。

 

東京の叔母さんから姉の縁談があり、相手が、勤める会社に就職 1年。                      弟は、明治大学に入学。姉と暮らす。生活は、大変だったらしい。

 

3・4年目、D(高齢者)クラスの担当に移動。

社会見学:マイクロバスに乗って八尾駅から富山駅まで電車に乗っていく。昼食を取り、大手スーパー(ユニー)で買い物。再び電車に乗って帰る。

報告書を書いた後、レシートと一緒に引出しの中に入れたはずのレシートが、翌日の朝には、紛失している。  個人の 小遣い帳に購入したものを記帳し、レシートを張らなければなりません。

後日、スーパーに行き、訳を話す。親切な従業員さんで、記憶に残っていると言って探して コピーして下さった。

 

中井光代の担当職員が、女子職員から男子職員に代わり何をしても注意されない。陰で弱い者いじめが始まった。  先輩職員から担当の変更・女子職員の方がいいのではないかと言う意見も でていた。 そして、いじめられた苑生は、私に訴えに来た。

 

面会日、光代・他のお母さん達がいる中、母親は、自分の息子の自慢が始まる。長男は、…の大学に出て…に努めている。次男は、・・・・・・・・・。

母親に「息子さんの話はいいから、もっと光代さんと話をして励まして」と。気に入らなかったらしく、娘に「藤井先生の言う事を聞かれんナ」と。

数人のお母さん方から聞き、気を付けるようにと。

 

それからは、私の目の前で 友達を叩いたり、突き倒したりしだす。注意すると私の髪をつかみ振り回す。虐められていた苑生が、パニックをおこす。 

居室に入って注意。3回叩かれる。 痛かった。私も一発叩き「痛かったでしょ。私も痛かった。涼涼 も信ちゃんも痛かったのヨ」

 

そして私が、異例の人事 移動。作業は、そのまま。生活は、最重度棟へ。

私が悪いとみられたのだと。

父に相談。   セーナー苑をやめて弁当屋をしたい。場所は総曲輪の電車道りの店(幽霊が出る)を買うか、駅でやってみたいと。この時代、コンビニも弁当屋も無かった。

 

 

セーナー苑での39年間(8)
5年前に 障害の子供を持つ保護者の強い働きかけで開設されたばかりのセーナー苑(大沢野町坂本・現富山市)に就職しました。 保護者の中には、こういう子達がいるから、あなた達が働けるのです。というものの考え方の人、実際口にする人もいました。

初任給は、1万8千円でした。これに宿直手当・苑生がいなくなると呼び出しがあり、ゴルフ場や墓地の中(皆、怖がりいつも私 1人で入る。 変なおじさんがいたら大声を出すから来てネと言って)を探し回った。代休はなく、手当が加わり、 3年前に就職していた幼稚園教諭の姉を上回っていた。

更に「学生時代、姉には2万円~2万5千円送くっていた。 使い果たし、再仕送りをしてくると思い 少なめにしたが よくやりくりをした。 給料は、家に入れなくていい。全部自分で管理していい」と。

マイクロバスは、富山駅から苑まで送迎。交通費は、駅までの人と、運行中のバスまでしか 支給されていない。バスは、日・祭日・土(Pm5:30)は、出ませんでした。そして新採の私達は、勤務が多かった。 みんなは、富山駅までタクシーで。 私は断って、地鉄バスで帰った。 そして守銭奴と言われた。
私は、職員の結婚・出産祝いに、皆と一緒に出し合い、他に手作りのショールやベビー服を編み(テレビを見ながら、編んでいる。金銭的にも安く負担にならい。) 喜んでもらえればとプレゼントをしていました。
 
勤務は、1か月の勤務表が出る。日勤がAM8:30~PM6:15まで、宿直は、AM8:30~翌日9:15頃まででした。

昼、交代で指導食というものがあり、苑生と一緒に食事を摂りながら苑生の摂取量の把握・薬の服用把握・掃除・トイレ・歯磨指導があり、食事代は、無料。

指導員にも、食堂に職員の名簿の紙を張り、希望者はO印をつける。(勿論有料)。偏食の激しい私は、弁当を持参。  宿直の日も昼・夕・夜食の弁当を3食 持参していた。誰かが、私の勤務表を見ながら印をつけたのでしょう。 1食も食べていないのに 更に指導食事の数まで 給料から引かれていました。 事務所に行ったら、来月にと。入金なく、栄養士さんのところに行くようにと。分らないと無視される。私は、事務職員か?・厨房に関わる職員のいずれかと思っています。(指導食という業務を知らない人) 
結局、お金は、戻りませんでした。

1年目、私の仕事は、白樺寮の掃除・洗濯・繕い物等の雑務をこなし、手のかかる苑生は、寮に置いてきぼり。その苑生への声掛け。先生と苑生との関係ではなく友達感覚で
接した。先輩の木谷先生に「今までにない先生だ・・・・」と 褒められた。

当直は、1度目、先輩と一緒に 当直し仕事を覚える。2度目からは、1人で。

宿直室に薬を取りに行っている時に 島さんが椅子をガラス戸に向かって投げつける。そばのテーブルの上の2人分の食事にガラスの破片が入った。島さんと私と2人で片付け、2人分の食事を移す。島、自分のご飯に入っていないのにと怒りだす。逆の立場を話すと「分かったチャ・分かったチャ」と。
PM9:00みんな就寝した後、島さんを起こし、持参の弁当を2人で食べる。椅子を投げた理由は先生に𠮟られた からと。 その後も、何度も𠮟って 帰っていく先輩がいた。
その都度、私に当たり散らしに来る。可愛いと思った。 
それから「洋子ヤ・洋子ヤ」と呼ぶようになった。そしてある時、「何で、洋子ヤ・洋子ヤと呼ぶがヨ?」と荒い口調で言ってくる。又𠮟られたらしい「可愛いから」と 「・・・・・・・・・」
「洋子ヤ・洋子ヤで、いいチャ」と。了解を得た。やはり可愛い。

<登山を楽しむ>
姉から、登山要具が揃っている。どこに登ったのか、聞かれ話す。2人で登山(山道)をすることに。立山・室堂までバスで行き、薬師岳に向かって歩き、登らずに左手に見ながら薬師沢に行き宿泊。水晶岳(?) を通り雲ノ平で宿泊予定。水晶岳には、自然の温泉があると聞き、雲ノ平を通って水晶岳で宿泊に変更。従業員に連れられて露天温泉の手前へ、白い旗が掛けられていた。「今、男の人が入浴中。旗が下ろされたら赤い旗を掛けて入ってください」。 露天温泉は、綺麗に作られていた。薬師沢へ行く途中 左の細い道に入って水晶池に行くように進められる。水晶池の周りは、山・山・山 そこに立つと、池には私達・山・空が、凄く綺麗に映し出されていた。

それから登山にはまる。職員の中にも山登りの好きな人がいた。富山ローザンに入り、
年4・5・6回は 登った。登山中は、何ともなかったが、下山し、一晩 家で 寝ると全身が、むくみ、息も絶え絶え。母は、体力以上の事をしているのではないかと心配した。1日余裕を持って休みをとるようになった。北アルプスのほとんどを制覇し、2・3回登った山もある。


11月、財政が無いと全員給料が当たらなかった。市の執行職員(総務部長)が、財団法人から社会福祉法人に変更手続きされた。12月に全額支給され、更に差額(ボーナス程の額)が支給されるようになった。

 

2年目から 私達が、こなしていた雑務を担う(指導員助手)という職種の方が 採用され、入所者の本格的な指導が始まりました。
私は、基礎班担当。病気でない限り、声掛けして全員教室に連れていく。そして、苑生の良いところを言って誘導・注意した(木谷先輩から得た指導方法です)。
昼食は、グループごとに、 男子寮(若竹)で、食事を取る。私の後ろから男子苑生(四十竹君)が来て、頬にキスをして「キャ・キャ」と笑って逃げていく。男子職員が四十竹君を連れて来て「先生に、何をした。先生達でさえ出来ない事を」「・・・」面白がっている。
又、男子職員は、木谷先生のことを木~谷先生と言う理由を聞く。 いつも キー・キーと怒っているからと。
私は、先生の良いところを話し、尊敬していることを。 𠮟られた苑生も尊敬しており、素直に聞き入れていると。それから「木~谷先生」と耳にすることはなくなった。私は
毎日が楽しかった。職員で1泊・日帰り旅行にもいった。北アルプスにも登った。毎日が楽しかった。
 

新寮長(折井先生)が、五月の勤務表を作るにあたり、みんな公平な条件で勤務が出来るよう 下案を作ったところ、先輩から 日・祭日の勤務が多いと文句を言われたらしく、悩んでおられる様子。私は、今までと同じ勤務でも構わないと慰めた。


この勤務ダイヤをうまく利用して、東京へ(0泊1日)行く。従弟が務める生地の問屋へ行き、 素敵な生地を買うのが目的でした。以前、仕立ててもらっていた近所の内山さんに、ワンピース・ベルベットのドレス・ガウン・ウエディングドレス等を作ってもらいました。
姉・私・弟の奥さんは、いずれも、東京で買ってき白地の上に白糸で刺繡された光沢のある布地で、仕立てた シンプルなデザインのウエディングドレスを着た思い出があります。

テレビで、「風と共に去りぬ」・「橋のない川」を放映。本は、テレビでは、見られない内情が、よく分かった。又、徳川家康太閤記等を読む事によって歴史上の事は、分からないにしても、その人なりを知ることができた。それから本を読みあさった。列車の待ち時間も惜しんで読んだ。  

3・4年目、D(高齢者)クラスの担当に移動。
社会見学:マイクロバスに乗って八尾駅から富山駅まで電車に乗っていく。昼食を取り、大手スーパー(ユニー)で買い物。再び電車に乗って帰る。
報告書を書いた後、レシートと一緒に引出しの中に入れたはずのレシートが、翌日の朝には、紛失している。  個人の 小遣い帳に購入したものを記帳し、レシートを張らなければなりません。
後日、スーパーに行き、訳を話す。親切な従業員さんで、記憶に残っていると言って探して コピーして下さった。

中井光代の担当職員が、女子職員から男子職員に代わり何をしても注意されない。陰で弱い者いじめが始まった。  先輩職員から担当の変更・女子職員の方がいいのではないかと言う意見も でていた。 そして、いじめられた苑生は、私に訴えに来た。

面会日、光代・他のお母さん達がいる中、母親は、自分の息子の自慢が始まる。長男は、…の大学に出て…に努めている。次男は、・・・・・・・・・。
母親に「息子さんの話はいいから、もっと光代さんと話をして励まして」と。気に入らなかったらしく、娘に「藤井先生の言う事を聞かれんナ」と。
数人のお母さん方から聞き、気を付けるようにと。

 

それからは、私の目の前で 友達を叩いたり、突き倒したりしだす。注意すると私の髪をつかみ振り回す。虐められていた苑生が、パニックをおこす。 
居室に入って注意。3回叩かれる。 痛かった。私も一発叩き「痛かったでしょ。私も痛かった。涼涼 も信ちゃんも痛かったのヨ」

そして私が、異例の人事 移動。作業は、そのまま。生活は、最重度棟へ。
私が悪いとみられたのだと。
父に相談。   セーナー苑をやめて弁当屋をしたい。場所は総曲輪の電車道りの店(幽霊が出る)を買うか、駅でやってみたいと。この時代、コンビニも弁当屋も無かった。