セーナー苑務めて(9) 保護者から信頼を得たこと

父は、弁当屋を反対。自分で、福祉の学校を選び、精神薄弱者(知的障害)施設を希望した事。一生懸命頑張っていたこと。数年で辞めた人は、次も続かない人が多いと。・・・・・ 頑張ることに。

母の妹のご主人が、事業を始めるので、保証人になってほしと。父は、断る(同級生の門前さんのお父さんが、保証人にたち、全財産を無くした)、そして、通帳いの全額を下ろし、なせる分を借入れ、私にも声掛け。守銭奴と言われてまで貯めた金だからと断る。父に貸す事に。合わせて援助する。数年後、倒産。弟の家を手放さなければならなかった。  母の兄と、父とで負担。

 

私は、つくし寮(最重度棟)に移動。  作業を終えて入浴時間(週2回)寮へ、ここでも手のかかる苑生は、置いてきぼり。自分のこぶしをいつも口に入れ、服をベッタリ濡らしていた。常に手を後ろに拘束されていた(クンちゃん)、 気に入らない人の腕の内側をつねる。 トイレの中に足を 突っ込み水遊びをする(ノッちゃん)    クンちゃんは、色黒・目はパッチリ・唇は厚く、常にフンフンと言って怒っている。お世辞にも可愛いとは言えない。 

 

 クンちゃんをまねて手を後ろにして、後ろをついて歩く。 暫くすると腕の付け根が痛くなる。紐をほどき、舐めないようにベッタリ つく。 舐めそうになると、駄目と言って手を下におろさせる。そんなある日、手を口元にもっていき駄目と言いかけた時、 頭をかき出す。 「こら、先生をからかって」クンちゃん、声を出して笑い出した。その笑顔が、すごく可愛い。 クンちゃんは、このようなやり取りをたのしんだ。

 

2人を連れて正面の芝生に連れて行き、クンちゃんと手をつなぎ、ノッちゃんは、自由に。 池の方に走った時は、捕まえ池から離れた所で また自由に。

 

ノッちゃんは、おしっこの間隔が長い。私は、洋式トイレは嫌い。いつも和式トイレを使用していた。 毎回、ノッちゃんを連れて洋式トイレで用を足すようになった。 尿が出たら指で刺し、シーシーと言う。

目がおしっこの方に。それからトイレに座らせ シーシーと すぐ用を足すようになった。嬉しくって、頭を撫でまわした。職員に報告しトイレで用を足すようになった。

更に当直時、最後にトイレに連れて行き、就寝。起床時、ちょっと早めに起こし用を足し着替え自由に。夜尿はしなかった。

 

面会日、ノッちゃんのお母さんから娘を可愛がってもらい、お礼を。私の顔を見ると とんで来たのに今では先生の側から離れない、それでも連れていくと 先生を振り返り・振り返り、引っ張られ 来ると。

 

夏休み、長男が「両親と妹のノッちゃんを見るつもりだ」と言って、結婚相手を連れてきて ノッちゃんと会うことに。パニックをおこし暴れる  彼女の父親から断ってきた。

 

それでも、娘さんは、結婚したいと。そしてお父さんは、そういう子がいると知って嫁に行くのだから ないがしろしてはいけい。可愛いがる という事が、条件だと。そして話が、進む。

お母さんは、その都度 逐一私に話された。 そして私は、「そんな素敵なお父さんに育てられた娘さん きっといいお嬢さんですヨ」

そして結婚  帰省・帰苑、お母さんの不満が。苑では、先生に。家では、義娘にベッタリで、寂しいと。

 

 

雨の日、寮でお絵かき、男子職員が腕を組み、その横で縛られているクンちゃんが フンフンと言って怒っている。少しかまったらと。『いつも、怒ってばかり、可愛げが無い』 。 「この子、声を出して、ケタケタ笑う」と。  いつものやり取りをすると、ケタケタと笑い出した。  男子職員は、「こんな可愛顔を見たことがない」。

笑顔が、週2回から毎日になった。クンちゃんの顔付きも変わっていった。

面会日、娘の変わりように気がついた母親は、男子職員から ことの仔細を聞き、 私にも お礼を言いに来られた。

 

4月、中井光代が、手に負えなくなったという理由から白樺寮からつくし寮に移動。

私は納得できなかった。白樺寮の苑生は、喋れなくても訴える事ができる。 つくし寮には、訴えることが出来ない苑生が、何人もいる。 ましてや私が、いる所に。

 

そして1年後 私は、ねむの木寮に移動。ここでもグループに行く事もない苑生・秋葉美恵子はいつも寮内を徘徊している。コーヒーが大好きで、要求。そして与える職員がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        

  

 

 

セーナー苑務めて(8) 得たこと・納得できない事

セーナー苑での39年間(8)

5年前に 障害の子供を持つ保護者の強い働きかけで開設されたばかりのセーナー苑(大沢野町坂本・現富山市)に就職しました。 保護者の中には、こういう子達がいるから、あなた達が働けるのです。というものの考え方の人、実際口にする人もいました。

 

初任給は、1万8千円でした。これに宿直手当・苑生がいなくなると呼び出しがあり(東富山から大沢野まで タクシーで)、ゴルフ場や墓地の中(皆、怖がりいつも私 1人で入る。 変なおじさんがいたら大声を出すから来てネと言って)を探し回った。代休はなく、手当が加わり、 3年前に就職していた幼稚園教諭の姉の給料を かなり上回っていた。

 

更に「学生時代、姉には2万円~2万5千円送くっていた。 使い果たし、再仕送りをしてくると思い 少なめにしたが よくやりくりをした。 給料は、家に入れなくていい。全部自分で管理していい」と。

 

マイクロバスは、富山駅から苑まで送迎。交通費は、駅までの人と、運行中のバスまでしか 支給されていない。バスは、日・祭日・土(Pm5:30)は、出ませんでした。そして新採の私達は、勤務が多かった。 みんなは、富山駅までタクシーで。 私は断って、地鉄バスで帰った。 そして守銭奴と言われた。

私は、職員の結婚・出産祝いに、皆と一緒に出し合い、他に手作りのショールやベビー服を編み(テレビを見ながら、編んでいる。金銭的にも安く負担にならい。) 喜んでもらえればとプレゼントをしていました。

 

勤務は、1か月の勤務表が出る。日勤がAM8:30~PM6:15まで、宿直は、AM8:30~翌日9:15頃まででした。

 

昼、交代で指導食というものがあり、苑生と一緒に食事を摂りながら苑生の摂取量の把握・薬の服用把握・掃除・トイレ・歯磨指導があり、食事代は、無料。

 

指導員にも、食堂に職員の名簿の紙を張り、希望者はO印をつける。(勿論有料)。偏食の激しい私は、弁当を持参。  宿直の日も昼・夕・夜食の弁当を3食 持参していた。誰かが、私の勤務表を見ながら印をつけたのでしょう。 1食も食べていないのに 更に指導食事の数まで 給料から引かれていました。 事務所に行ったら、来月にと。入金なく、栄養士さんのところに行くようにと。分らないと無視される。私は、事務職員か?・厨房に関わる職員のいずれかと思っています。(指導食という業務を知らない人) 

結局、お金は、戻りませんでした。

 

1年目、私の仕事は、白樺寮の掃除・洗濯・繕い物等の雑務をこなし、手のかかる苑生は、寮に置いてきぼり。その苑生への声掛け。先生と苑生との関係ではなく友達感覚で

接した。先輩の木谷先生に「今までにない先生だ・・・・」と 褒められた。

 

当直は、1度目、先輩と一緒に 当直し仕事を覚える。2度目からは、1人で。

 

宿直室に薬を取りに行っている時に 島さんが椅子をガラス戸に向かって投げつける。そばのテーブルの上の2人分の食事にガラスの破片が入った。島さんと私と2人で片付け、2人分の食事を移す。島、自分のご飯に入っていないのにと怒りだす。逆の立場を話すと「分かったチャ・分かったチャ」と。

PM9:00みんな就寝した後、島さんを起こし、持参の弁当を2人で食べる。椅子を投げた理由は先生に𠮟られた からと。 その後も、何度も𠮟っては、 帰っていく先輩がいた。

その都度、私に当たり散らしに来る。可愛いと思った。 

それから「洋子ヤ・洋子ヤ」と呼ぶようになった。そしてある時、「何で、洋子ヤ・洋子ヤと呼ぶがヨ?」と荒い口調で言ってくる。又𠮟られたらしい「可愛いから」と 「・・・・・・・・・」

「洋子ヤ・洋子ヤで、いいチャ」と。了解を得た。やはり可愛い。

 

<登山を楽しむ>

姉から、登山要具が揃っている。どこに登ったのか、聞かれ話す。2人で登山(山道)をすることに。立山・室堂までバスで行き、薬師岳に向かって歩き、登らずに左手に見ながら薬師沢に行き宿泊。水晶岳(?) を通り雲ノ平で宿泊予定。水晶岳には、自然の温泉があると聞き、雲ノ平を通って水晶岳で宿泊に変更。従業員に連れられて露天温泉の手前へ、白い旗が掛けられていた。「今、男の人が入浴中。旗が下ろされたら赤い旗を掛けて入ってください」。 露天温泉は、綺麗に作られていた。薬師沢へ行く途中 左の細い道に入って水晶池に行くように進められる。水晶池の周りは、山・山・山 そこに立つと、池には私達・山・空が、凄く綺麗に映し出されていた。

 

それから登山にはまる。職員の中にも山登りの好きな人がいた。富山ローザンに入り、

年5・6回は 登った。登山中は、何ともなかったが、下山し、一晩 家で 寝ると全身が、むくみ、息も絶え絶え。母は、体力以上の事をしているのではないかと心配した。1日余裕を持って休みをとるようになった。北アルプスのほとんどを制覇し、2・3回登った山もある。

 

 

11月、財政が無いと全員給料が当たらなかった。市の執行職員(総務部長)が、財団法人から社会福祉法人に変更手続きをされた。12月に全額支給され、更に差額(ボーナス程の額)が支給されるようになった。

 

 

 

2年目から 私達が、こなしていた雑務を担う(指導員助手)という職種の方が 採用され、入所者の本格的な指導が始まりました。

私は、基礎班担当。病気でない限り、声掛けして全員教室に連れていく。そして、苑生の良いところを言って誘導・注意した(木谷先輩から得た指導方法です)。

昼食は、グループごとに、 男子寮(若竹)で、食事を取る。私の後ろから男子苑生(四十竹君)が来て、頬にキスをして「キャ・キャ」と笑って逃げていく。男子職員が四十竹君を連れて来て「先生に、何をした。先生達でさえ出来ない事を」「・・・」面白がっている。

又、男子職員は、木谷先生のことを木~谷先生と言う理由を聞く。 いつも キー・キーと怒っているからと。

私は、先生の良いところを話し、尊敬していることを。 𠮟られた苑生も尊敬しており、素直に聞き入れていると。それから「木~谷先生」と耳にすることはなくなった。私は、毎日が楽しかった。

職員で1泊・日帰り旅行にもいった。北アルプスにも登った。毎日が楽しかった。

 

 

新寮長(折井先生)が、五月の勤務表を作るにあたり、みんな公平な条件で勤務が出来るよう 下案を作ったところ、先輩から 日・祭日の勤務が多いと文句を言われたらしく、悩んでおられる様子。私は、今までと同じ勤務でも構わないと慰めた。

 

 

この勤務ダイヤをうまく利用して、東京へ(0泊1日)行く。従弟が務める生地の問屋へ行き、 素敵な生地を買うのが目的でした。以前、仕立ててもらっていた近所の内山さんに、ワンピース・ベルベットのドレス・ガウン・ウエディングドレス等を作ってもらいました。

姉・私・弟の奥さんは、いずれも、東京で買ってき白地の上に白糸で刺繡された光沢のある布地で、仕立てた シンプルなデザインのウエディングドレスを着た思い出があります。

 

テレビで、「風と共に去りぬ」・「橋のない川」を放映。本は、テレビでは、見られない内情が、よく分かった。又、徳川家康太閤記等を読む事によって歴史上の事は、分からないにしても、その人なりを知ることができた。それから本を読みあさった。列車の待ち時間も惜しんで読んだ。

 

東京の叔母さんから姉の縁談があり、相手が、勤める会社に就職 1年。                      弟は、明治大学に入学。姉と暮らす。生活は、大変だったらしい。

 

3・4年目、D(高齢者)クラスの担当に移動。

社会見学:マイクロバスに乗って八尾駅から富山駅まで電車に乗っていく。昼食を取り、大手スーパー(ユニー)で買い物。再び電車に乗って帰る。

報告書を書いた後、レシートと一緒に引出しの中に入れたはずのレシートが、翌日の朝には、紛失している。  個人の 小遣い帳に購入したものを記帳し、レシートを張らなければなりません。

後日、スーパーに行き、訳を話す。親切な従業員さんで、記憶に残っていると言って探して コピーして下さった。

 

中井光代の担当職員が、女子職員から男子職員に代わり何をしても注意されない。陰で弱い者いじめが始まった。  先輩職員から担当の変更・女子職員の方がいいのではないかと言う意見も でていた。 そして、いじめられた苑生は、私に訴えに来た。

 

面会日、光代・他のお母さん達がいる中、母親は、自分の息子の自慢が始まる。長男は、…の大学に出て…に努めている。次男は、・・・・・・・・・。

母親に「息子さんの話はいいから、もっと光代さんと話をして励まして」と。気に入らなかったらしく、娘に「藤井先生の言う事を聞かれんナ」と。

数人のお母さん方から聞き、気を付けるようにと。

 

それからは、私の目の前で 友達を叩いたり、突き倒したりしだす。注意すると私の髪をつかみ振り回す。虐められていた苑生が、パニックをおこす。 

居室に入って注意。3回叩かれる。 痛かった。私も一発叩き「痛かったでしょ。私も痛かった。涼涼 も信ちゃんも痛かったのヨ」

 

そして私が、異例の人事 移動。作業は、そのまま。生活は、最重度棟へ。

私が悪いとみられたのだと。

父に相談。   セーナー苑をやめて弁当屋をしたい。場所は総曲輪の電車道りの店(幽霊が出る)を買うか、駅でやってみたいと。この時代、コンビニも弁当屋も無かった。

 

 

セーナー苑での39年間(8)
5年前に 障害の子供を持つ保護者の強い働きかけで開設されたばかりのセーナー苑(大沢野町坂本・現富山市)に就職しました。 保護者の中には、こういう子達がいるから、あなた達が働けるのです。というものの考え方の人、実際口にする人もいました。

初任給は、1万8千円でした。これに宿直手当・苑生がいなくなると呼び出しがあり、ゴルフ場や墓地の中(皆、怖がりいつも私 1人で入る。 変なおじさんがいたら大声を出すから来てネと言って)を探し回った。代休はなく、手当が加わり、 3年前に就職していた幼稚園教諭の姉を上回っていた。

更に「学生時代、姉には2万円~2万5千円送くっていた。 使い果たし、再仕送りをしてくると思い 少なめにしたが よくやりくりをした。 給料は、家に入れなくていい。全部自分で管理していい」と。

マイクロバスは、富山駅から苑まで送迎。交通費は、駅までの人と、運行中のバスまでしか 支給されていない。バスは、日・祭日・土(Pm5:30)は、出ませんでした。そして新採の私達は、勤務が多かった。 みんなは、富山駅までタクシーで。 私は断って、地鉄バスで帰った。 そして守銭奴と言われた。
私は、職員の結婚・出産祝いに、皆と一緒に出し合い、他に手作りのショールやベビー服を編み(テレビを見ながら、編んでいる。金銭的にも安く負担にならい。) 喜んでもらえればとプレゼントをしていました。
 
勤務は、1か月の勤務表が出る。日勤がAM8:30~PM6:15まで、宿直は、AM8:30~翌日9:15頃まででした。

昼、交代で指導食というものがあり、苑生と一緒に食事を摂りながら苑生の摂取量の把握・薬の服用把握・掃除・トイレ・歯磨指導があり、食事代は、無料。

指導員にも、食堂に職員の名簿の紙を張り、希望者はO印をつける。(勿論有料)。偏食の激しい私は、弁当を持参。  宿直の日も昼・夕・夜食の弁当を3食 持参していた。誰かが、私の勤務表を見ながら印をつけたのでしょう。 1食も食べていないのに 更に指導食事の数まで 給料から引かれていました。 事務所に行ったら、来月にと。入金なく、栄養士さんのところに行くようにと。分らないと無視される。私は、事務職員か?・厨房に関わる職員のいずれかと思っています。(指導食という業務を知らない人) 
結局、お金は、戻りませんでした。

1年目、私の仕事は、白樺寮の掃除・洗濯・繕い物等の雑務をこなし、手のかかる苑生は、寮に置いてきぼり。その苑生への声掛け。先生と苑生との関係ではなく友達感覚で
接した。先輩の木谷先生に「今までにない先生だ・・・・」と 褒められた。

当直は、1度目、先輩と一緒に 当直し仕事を覚える。2度目からは、1人で。

宿直室に薬を取りに行っている時に 島さんが椅子をガラス戸に向かって投げつける。そばのテーブルの上の2人分の食事にガラスの破片が入った。島さんと私と2人で片付け、2人分の食事を移す。島、自分のご飯に入っていないのにと怒りだす。逆の立場を話すと「分かったチャ・分かったチャ」と。
PM9:00みんな就寝した後、島さんを起こし、持参の弁当を2人で食べる。椅子を投げた理由は先生に𠮟られた からと。 その後も、何度も𠮟って 帰っていく先輩がいた。
その都度、私に当たり散らしに来る。可愛いと思った。 
それから「洋子ヤ・洋子ヤ」と呼ぶようになった。そしてある時、「何で、洋子ヤ・洋子ヤと呼ぶがヨ?」と荒い口調で言ってくる。又𠮟られたらしい「可愛いから」と 「・・・・・・・・・」
「洋子ヤ・洋子ヤで、いいチャ」と。了解を得た。やはり可愛い。

<登山を楽しむ>
姉から、登山要具が揃っている。どこに登ったのか、聞かれ話す。2人で登山(山道)をすることに。立山・室堂までバスで行き、薬師岳に向かって歩き、登らずに左手に見ながら薬師沢に行き宿泊。水晶岳(?) を通り雲ノ平で宿泊予定。水晶岳には、自然の温泉があると聞き、雲ノ平を通って水晶岳で宿泊に変更。従業員に連れられて露天温泉の手前へ、白い旗が掛けられていた。「今、男の人が入浴中。旗が下ろされたら赤い旗を掛けて入ってください」。 露天温泉は、綺麗に作られていた。薬師沢へ行く途中 左の細い道に入って水晶池に行くように進められる。水晶池の周りは、山・山・山 そこに立つと、池には私達・山・空が、凄く綺麗に映し出されていた。

それから登山にはまる。職員の中にも山登りの好きな人がいた。富山ローザンに入り、
年4・5・6回は 登った。登山中は、何ともなかったが、下山し、一晩 家で 寝ると全身が、むくみ、息も絶え絶え。母は、体力以上の事をしているのではないかと心配した。1日余裕を持って休みをとるようになった。北アルプスのほとんどを制覇し、2・3回登った山もある。


11月、財政が無いと全員給料が当たらなかった。市の執行職員(総務部長)が、財団法人から社会福祉法人に変更手続きされた。12月に全額支給され、更に差額(ボーナス程の額)が支給されるようになった。

 

2年目から 私達が、こなしていた雑務を担う(指導員助手)という職種の方が 採用され、入所者の本格的な指導が始まりました。
私は、基礎班担当。病気でない限り、声掛けして全員教室に連れていく。そして、苑生の良いところを言って誘導・注意した(木谷先輩から得た指導方法です)。
昼食は、グループごとに、 男子寮(若竹)で、食事を取る。私の後ろから男子苑生(四十竹君)が来て、頬にキスをして「キャ・キャ」と笑って逃げていく。男子職員が四十竹君を連れて来て「先生に、何をした。先生達でさえ出来ない事を」「・・・」面白がっている。
又、男子職員は、木谷先生のことを木~谷先生と言う理由を聞く。 いつも キー・キーと怒っているからと。
私は、先生の良いところを話し、尊敬していることを。 𠮟られた苑生も尊敬しており、素直に聞き入れていると。それから「木~谷先生」と耳にすることはなくなった。私は
毎日が楽しかった。職員で1泊・日帰り旅行にもいった。北アルプスにも登った。毎日が楽しかった。
 

新寮長(折井先生)が、五月の勤務表を作るにあたり、みんな公平な条件で勤務が出来るよう 下案を作ったところ、先輩から 日・祭日の勤務が多いと文句を言われたらしく、悩んでおられる様子。私は、今までと同じ勤務でも構わないと慰めた。


この勤務ダイヤをうまく利用して、東京へ(0泊1日)行く。従弟が務める生地の問屋へ行き、 素敵な生地を買うのが目的でした。以前、仕立ててもらっていた近所の内山さんに、ワンピース・ベルベットのドレス・ガウン・ウエディングドレス等を作ってもらいました。
姉・私・弟の奥さんは、いずれも、東京で買ってき白地の上に白糸で刺繡された光沢のある布地で、仕立てた シンプルなデザインのウエディングドレスを着た思い出があります。

テレビで、「風と共に去りぬ」・「橋のない川」を放映。本は、テレビでは、見られない内情が、よく分かった。又、徳川家康太閤記等を読む事によって歴史上の事は、分からないにしても、その人なりを知ることができた。それから本を読みあさった。列車の待ち時間も惜しんで読んだ。  

3・4年目、D(高齢者)クラスの担当に移動。
社会見学:マイクロバスに乗って八尾駅から富山駅まで電車に乗っていく。昼食を取り、大手スーパー(ユニー)で買い物。再び電車に乗って帰る。
報告書を書いた後、レシートと一緒に引出しの中に入れたはずのレシートが、翌日の朝には、紛失している。  個人の 小遣い帳に購入したものを記帳し、レシートを張らなければなりません。
後日、スーパーに行き、訳を話す。親切な従業員さんで、記憶に残っていると言って探して コピーして下さった。

中井光代の担当職員が、女子職員から男子職員に代わり何をしても注意されない。陰で弱い者いじめが始まった。  先輩職員から担当の変更・女子職員の方がいいのではないかと言う意見も でていた。 そして、いじめられた苑生は、私に訴えに来た。

面会日、光代・他のお母さん達がいる中、母親は、自分の息子の自慢が始まる。長男は、…の大学に出て…に努めている。次男は、・・・・・・・・・。
母親に「息子さんの話はいいから、もっと光代さんと話をして励まして」と。気に入らなかったらしく、娘に「藤井先生の言う事を聞かれんナ」と。
数人のお母さん方から聞き、気を付けるようにと。

 

それからは、私の目の前で 友達を叩いたり、突き倒したりしだす。注意すると私の髪をつかみ振り回す。虐められていた苑生が、パニックをおこす。 
居室に入って注意。3回叩かれる。 痛かった。私も一発叩き「痛かったでしょ。私も痛かった。涼涼 も信ちゃんも痛かったのヨ」

そして私が、異例の人事 移動。作業は、そのまま。生活は、最重度棟へ。
私が悪いとみられたのだと。
父に相談。   セーナー苑をやめて弁当屋をしたい。場所は総曲輪の電車道りの店(幽霊が出る)を買うか、駅でやってみたいと。この時代、コンビニも弁当屋も無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

短大時代と寮生活(7)

短大入学、寮生活に

1年遅れながら高校推薦で淑徳短期大学社会福祉科に入学しました。1ヶ月の仕送りは、1万5千円だった。だいたい2万円~1万5千円で少ない方でした。

 

短大から約5分のところに寮がありました。寮は1部屋3人の定員で2年生1人と1年生2人の組み合わせ。先輩は、いつも部屋にいる事はなかった。隣の部屋の先輩に誘われ、いつも、隣室に行き、 楽しく過ごした。

義手も邪魔で仕方がない。外す。言いたい人には言わせておけばいいと 思った。

 

そんなある日のお昼、同室の先輩に誘われ、先輩の友達の部屋へ。先輩3人と1年生4人で豪勢な食事をした。その時、先輩の友達がもうお金が、少なくなった。今月2度目で仕送りしてもらうまで大人しくしていなきゃと。その後、1度誘われたがお断りした。

それから いつも隣室で過ごした。数回、家からヒラメ(ミビキ)のこぶ締めが、送られてきた。1度目、½にして先輩の友達と一緒に食べてと渡す。半分は、隣室でたべる。食べた事が無い、美味しいと好評だった。富山県の名産かな  ?  と。

 

10月 冬になってコタツ準備。先輩は、昨年のコタツを・友達は、東京は寒いからと重ね布団としてコタツ布団が送られていた。そして私は、コタツ用の敷物を購入した

 

ワンダーホーゲル部に入ったが・・・

私は2年生 同室の下級生が2人。その内の1人が、数人の友達の友達と仲良くして指導権を握っていた。そして2人は、殆ど部屋には、居なかった。

 

私も1年の時の数人の友達と楽しく過ごした。そんなある日、青森県出身の山口さんからワンゲル部を作るにあたり、人数が足りないからと誘われる。小学6年・中学3年の時、立山登山に挑んだが、体力がなく、早々にバテ、居残りとなるった事を話す。

名前だけでもと言われ入部。

今度は、せっかく入ったのだから、埼玉県の低い山に登ろうと言われ、キャラバン・リュック・登山服を購入した。中程 強 登ったが、バテ休憩、皆に山頂に登ってと言うが、一緒に来たのだから、一緒に登らなきゃ意味がないと。下山することになる。

夏休み岩手山に登るため東北へ ずっと雨がふりっぱなし。そして登山の途中、上のほうが集中豪雨で、引き留められる。

十和田湖でキャンプし、奥入瀬渓流ウオーキング 楽しく過ごした。

 

警察官の不祥事が、多い年、富山県警の偉い人が、5・6年前の件(市民病院のドクター・警察官が父を殺そうとしていた事)で、自宅に来られた。 翌日に報道関係者(テレビ・新聞社)の人達が来られた。 その詳細は、分かりません。 そして、それ以降も 何ら 変わる事は、無かった。

 

手編みができるようになる

この年の冬は 8月の中頃から、冬に着る服を探しまわった。西武デパートに素敵なセーターが、並んでいる。ちょっと高いが、下さいと。  売り物では無いので、毛糸を購入し自分で編んで下さいと。私の手を見せ、不器用なことも話す。  店員さんが 親指と小指があれば、作れます。 編み棒をもって 手首を動かして編みます。綺麗に編めるよう教えてあげるからと言われ 毛糸を買い 編み始めた。 何度かほどきましたが、難しいピコットセータが綺麗に出来上がった。満足。 洗替にと 棒針編みのセーターを編み。これも満足。 

 

11月前に、下級生にコタツの事で話しかけると、コタツとコタツの下敷きを用意したから 布団を用意するよう言われた。全く私を無視。そして私には、お昼代のお金しか残っていなかった。

下敷きにカバーをかけ、コタツ布団にして炬燵に掛けたところ、散々嫌味を言われ、たたみ、私の机の前に。  何としてもコタツの上掛けを購入しなければならない。

 

短大はアルバイト禁止。  近いところにあったお菓子製造業の店先にアルバイト募集の貼り紙を見て飛び込み、事情を話す。  「私の時間に合わせて洗い物・片付け作業だけでもいい」と。  更に昼の食事を聞かれ まかない食付きで 優遇された。 アルバイト料が入る前日に、炬燵に布団が掛けられていた。お金は、いらなくなった。そして私は、その炬燵に足を入れることはなかった。

 

 

私は、アイデア料理は、色々出来るけれど、一般的な料理は作れない。母の妹の末子叔母さんに料理の作り方を教わりたい。無料でいいから、アルバイトは、ないかと。

花柳流のお師匠さんを紹介されて行く。  所がお手伝いさんも、誰もいない。私が、毎日 掃除・洗濯・自分流の料理をすることになった。 

ストレスからアルバイト料でショウトケーキを毎日 3つ食べた。そして母からミビキ(ヒラメ)のこぶ締めが送られてきた。取り上げられ、私の口には一つも入らなかった。アルバイトの意味が無いので、理由をつけやめた。

 

途中の公衆電話の中に帰省する為のお金が入っていた財布を置き忘れ、気付いて戻った時はもう財布は無かった。仕方なく近くの交番にいった。 届いていなかった。

お金を借りて富山へ帰った。10㎏太っていた。そして成人式を迎えた 記念写真は、太った着物姿が残りました。写真館のお母さんが側に来て 私に今までにない 1番素敵な着物ですヨ。と

 

父に「精神薄弱者(知的 障害者)施設に就きたい」と話したら、この事を京免さんに相談。息子さんの友達が、セーナー苑に努めている。そして仕事の話を聞き(姉の時は、県立黒部学園の話があったが断っている)、進めた。  採用試験を受ける。18人受け18人採用された。

 

3学期 東京に戻った時に 富山の名産のますずしを持って 交番に行ってお礼を言って、返却した。

父、会社を辞めて東富山寿町の4軒長屋の真ん中を購入し豆腐屋を経営(4)

東富山寿町の4軒長屋の真ん中を購入し、2月の初め、両親・幸子・弟の4人転居し、豆腐屋を経営。姉は、小学2年、母の実家から通う。豆腐屋の仕事は朝2時に起き、父は、前日、水に浸していた大豆の水切り、石すりをし、大きな鍋に移し煮込む。それを越し豆乳とおからに分ける。絹豆腐の型(40㎝×20㎝・高さ20㎝程のステンレス)数箱と、1メートル程の大きな桶に豆乳とにがりを入れて平棒で混ぜ、棒を立てたまま流れが止まるまで待つ。静かに棒を上げる。固まるまで待つ。絹豆腐完成、水槽に離す。木綿豆腐の型に蒸し布を広げ柄杓でスクって入れ布でくるむ。蓋をする。数箱作り重ね、重石をのせる(後程ジャキに)。水槽の中の絹豆腐をカット。

 

母は、当初、身ぎれいな服の出で立ちで働いていたが、飛び跳ねる油で汚れがひどい為作業着をきるようになった。油揚げ作り、 フライヤーに木綿豆腐を入れて台所に行き御飯炊き。店に戻り、 油揚げを上げ、再び木綿豆腐を入れおかず作りに。私が起きる頃に来て同じようにして布団たたみ、布団上げをしていく。私は母の大変さは、気づかなかった。 

 

 父はバイクで水野商店・不二越の会社・三菱アセテートへ卸した後、毎日、農家へ振り売り、(4ヶ所・4日ごとに)、全く売れなかった。

母は、がんもどき作り。昔ながらのがんもどきは、姉も私も大好きだった。木綿豆腐をこわし、とろろ芋・ヒジキを入れ、がんもの形に成形し、銀杏(自家用・海老)を入れる。最初は、油の中に成形したものを並べ入れガスのスイッチを入れ温度を上げる。違う温度で3回揚げる工程があり、まして、長芋を入れる事によって手にかゆみもでき大変だと思う。ずっと後になってがんもの元(粉)が出来、楽になる? 「がんもの作り方変えた?」と言っていらないと母に。それから家で食べる分は、昔ながらの作り方に戻った。

 

美味しい水が作る美味しい豆腐

豆腐作りは、原料の大豆と水によるものです。  食べ物の製造業は、保険事務所に水を提出しなければならない。そこで4番目に美味しいとお墨付きが出た

テレビ番組で、各県の俳優・女優さん(富山県では八尾の柴田理恵さん)が、水を持ち込みナンバーのついた水を飲み、富山県は、ダントツ1位だった。

 

両側に立ち並ぶ4軒長屋の真ん中をゆっくり歩いたり、走ったり。私の進む速度にしたがって、後ろに流れていく。結構面白い。そんなある日、草むらでトンボをみつける。後日、母から糸をもらって草むらへ。トンボを捕まえ糸につなぎ飛ばし遊ぶ。弱ったトンボを連れ帰り裏戸の鍵につなぎ、トイレに。用を足し、戻るとカエルがトンボを食べ口からトンボの羽が出ていて、嚙み 砕いているカエルの喉元が焼き付いている。可哀想なことをした。 

2度と生き物で遊んではいけないと反省。

3月末、姉は、2年生を終了し、母の実家から4軒長屋へ。  

母の大変さに気付いた姉は、親孝行したいと思い、私に「布団たたみをしよう」と。一緒に布団たたみを、母は、嬉しそうに「助かる・助かる」と言って布団上げをして店の方に

私達のやる事も早なり、布団上げを。私が押し入れの上に上り、姉が布団を持ち上げ、私が引っ張り上げる。時には、取り損ね姉が布団をかぶり てんぐりがえる。 又私が布団と一緒に姉の上に落ちて大笑い。毎日が楽しい。 2人早く起き、私は、布団たたみ・姉は、米とぎ。2人で布団上げ、朝食準備。味噌汁を作り、昨夜のおかずを並べる。 少ない時は、卵焼き・お浸し等を作った。

姉、大広田小学校に転校3年生・私は入学

 

4月姉が転校し3年生に、私は入学 1年生に

姉は、下校していつも母の手伝いを洗い物、弟のオムツがたまると川へ洗濯に、その都度小遣い(100円)を。私は仕事を支持される前にランドセルを入り口に放って外へ。小遣いが欲しい時は売り上げから5円?10円玉を取ってお店に。1度母につかまり洗い物をさせられ100円を貰った。いらないのにと思いながら受け取りアイスクリームを買って食べた。90円じゃまでしかたない。売上金の入ったかごへ入れた。(週に1・2回、5円か10円あればいい)。

 

春の運動会・母の作った太巻き寿司を持って参加。100m走で私は、ビリでゴール。夕食時、運動会で私を見つけるのは楽だ。1番 後さえ見ていればいい。最後から2番目から、ずっと遅れて走っている。 弁当箱をかずいて、お尻をフリフリ走っているアヒルそのものだった と。そして私は、こんな父は大好きになった。又、走るのはすごく遅いということを認識する。 それから父の酒の話のネタが増えた。

 

農家へ降り売りしてきた父が帰宅し、1軒の家が豆腐を買った。これでいける。と張り切っている。

しばらくして大豆を1年分購入、置き場所がないので豆屋さん倉庫に。

 

それから 「家は 貧乏だけど 」と言って、テレビを購入。まだテレビのない時代、毎日18人程の人が見に来られた。更に暫くして、家 貧乏だけど母さん大変だからと洗濯機を購入。まだ脱水機はなく、2つのローラーの間に衣類を通し絞る。(数年後、脱水付きの洗濯機が、売り出されると即購入・古いのは、母の妹夫婦のところへ、叔母は、まだ、タライで洗濯している時代。リッチな生活になったと)。   仕事に必要だから貧乏だけど と言って電話を入れる。母方の祖母が細筆で字を書いていた。すごく上手だなあという記憶にあった。家の隣の隣で、習字教室をしている。私も習いたかった。家は貧乏だから言えず諦める。

 

姉と私は、育ち盛り、服を買いに行けないので、近所の内山さんに布・縫製のすべてを任せて作ってもらっていた。柄・デザイン共に 好みでは なかった。姉のおさがりを着るので作らないでと。いつもお下がり なので、母は、年に数回大和百貨店に連れて行った。私は、値段を見ないで選ぶ。高かったのか、違った服を 持ってくる。お下がりでいいからと言うと 仕方なく高い物を購入。  私は、お金を出すのなら、気にいった物をというものの 考え方です。帰り際エレベーターのまえで

 

 

成長盛りの私達の服を買いに行く時間がない。近所の洋服の仕立てをしている人に依頼。生地もデザインもお任せ。どちらも好みではない。姉のお下がりでいいから私のは、作らないでと。姉のおさがりを着ていた。年に数回、大和百貨店・子供服売り物に連れて行かれました。値段を見ずに選んだ服は 高かったのでしょう。別の服を持って来てこれにしたら?と。結局、私の選んだ服を購入。私は、お金を出すのであれば、気に入った物をというものの考え方です。 帰り際、エレベーターの前でてんぐりがえっている男の子がいた。初めての事で母に聞く。欲しい物があっての行為だと知る。

 

そんなある日、学校の行き際、持ってくるよう言われた新聞のチラシを思い出し母に聞く。母は、揚げ物をしながら、「そこにある棚を左に行ってそこにある。」そこには大豆しかない

何度聞いても「そこそこ」と言うのみ。父は長靴をはいたまま入ってきて往復ビンタ(すごく痛かった)。母は、慌てて入って来て棚の上から出してくれる。私は、暴力をふるった父より,母に不満を持った。泣きはらした顔で学校に行き男の子にからかわれた。

学校を終え帰宅。棚の前に立ち 棚の上から2段目、左のほうにあると言われればわかるのに。  ある時、知らない叔母ちゃんが「〇〇さん家 分かる?」と聞かれ、自分なりに分かり易く説明した。それでも心配で後ろからついていった。叔母ちゃん家にたどり着き私のそばに来てすぐに分かったとほめ、お礼を言われた。

 

 

担当の先生を含むクラス全員で姉へのいじめ

   生徒の話を聞き入れない、怪我をしてもむしする

姉がクラスの友達皆に、にいじめられていると知った私のクラスの男子が授業の休憩時間に見に行っては、姉が泣いていたと私に知らせに来る。そんなある日、母がオムツを洗ってきてと言ったところ姉は顔を曇らせた。ひょっとしたらと思い私は、棒を持って姉についていった。案の定 数人の男の子が、洗濯している姉を突っつき川に落とそうとしたり、川上で小便をしようとする男達に 棒を振り回し追っ払った。毎回、姉について行った。そんなある日、それでもおしっこをしようとしている男の尻に力を入れ叩きつけた。男の子「酷いことするの」と。棒を振り上げ「ひどいのは誰かそこに隠れている者出てこい」と、2人 出てくる。叩いた男に溜まっているおしっこをかけるよう指示。3人共 もういじめないと。

 

 

数日後、姉への意地目は友達だけではなかった。先生も一緒になって意地目ていた。姉のランドセルを先生が、2階の窓から投げつけた所を見たと友達から聞く。

父に今までの事を話す。長靴をはいたまま学校に行き、職員室で他の先生もいる中、父は自分の娘が気に入らことは分かった。無視していい。授業についていけなくいい無視していい。他の生徒と一緒になって意地目るな。まして2階の窓から娘のランドセルを投げつける事はするなと・・・・・・・・・・・

帰宅して私にいきさつを話し、今後の様子を教えてほしいと。それから いじめがなくなりクラスの男子友達が見に行かなくなった。父に報告。

 

 

体育の時間、男女組み合わせで鬼ごっこ、私の相手は走るのが早く負けず嫌い。父は、私は、走るのは、遅いと何度も酒を飲みながら言っている。先生に相手を変えてほしいと頼むが、聞き入れてもらえず、引っ張りまわされ早々にこける。先生に邪魔だから どくようにとせかされるが痛くて動けない。自分で動くからと言うも無理矢理抱きかかえられ片隅へ。私は鬼ごっこの様子を見て、色々な顔・顔・顔・面白いと思った。終了しびっこをひき教室に。

保健室の先生が来て足を見せるようにと。治ったというもズボンをまくり、傷口を見て 保健室できちんと処置をと医務室へ。その時担当の先生が連絡されたと思った。消毒し包帯を巻きながら、こんなにひどいのに担当の先生知らないの ?と聞かれた。先生ではないのだと知った。私は、先生というのは、気に入らないといじめる。話しを聞かない。対処しない。私の中に先生は信用できない、好きになれない存在となった。これから 絶対に近寄らない、話もすることはないと。

そして数人の男の子に抱きかかえられた事でからかわれるようになった。

それから胃痙攣をおこし、痛みがひどく転げ回り、嘔吐、そして胃痛に変わるその日は、食事は、食べられない。好き・嫌いが多いのに更に魚料理も食べられなくなった。(食した後、生臭み上がってきてすべて嘔吐)。食べ物がなく、そのまま就寝する事もある。夜中じゅう、腹の虫が泣いていたらしい。それから常時、バナナが用意されていた。

 

 

また休憩時間、自分の席から後ろの掲示板に変わった。寄りかかり友達の動きや顔の表情を監察するようになった。私の横に鈴木さんが立ってしばらくして「とっぺ臭いからあっち行かれ」と。そして何度も「アー臭い臭いとっぺ臭い」と。私も負けてはいない。「豚・豚 白豚」と。そこへ数人の女子が来て私を非難。言い訳を。「本当のことだ。アーとっぺ臭い」と言って鈴木さんを連れて行った。居場所が確保でき満足。そして目はそのグループに。

鈴木さんの手が止まることなく動き、しぐさは、すごくかわいい・愛くるしいと思った。白豚と思った事は、撤回。

 

 

12月の冬、ひどい風邪をひく。喉 ちんこにへばりつくからと薬の服用拒否。往診に来られがたドクターの腹をけって注射は痛いからと逃げ回った。一向に治らない。母は、夕食時中、毎回 口説く。父は、自分が飲んでいる赤ワインを体で隠し廊下に私を連れていき飲まされる。 頭の中が回っている。疲れたのかなと思って寝る。次の日、体調良好。毎日飲まされた。(私が、30代のころ20歳未満の子供が酒を飲むと頭が、悪くなって、モノを覚えることができなくなる。とテレビで放映。だから頭が悪いのだと納得した。)  そして3人弟姉妹の中で私が1番  酒が強くなった。

 

 

私は小学2年生、担当は、くのり先生。 お子さんを同町内の放送局と噂されているお宅に預け、私の事を頭が悪い、勉強は全然出来ないと言った事から、近所中、学年中に広まった。 

隣のおじさんから母の鼻先で「頭が悪く勉強出来がんだって」とせせら笑われた。それからいつも母は、私の顔を見ると「勉強セー・勉強セー」と言うようになった。

学校で男の子にもからかわれ馬鹿にされるようになった。

 

ステキな笑顔と社会勉強

母と銭湯にいき遊びたい為、自分で体を洗うと。次回には長い健康タオルを用意していた。そして人に迷惑をおかけないように、湯をかけられるのを嫌う人がいるので気を付けるようにと約束し遊んだ。

知らない叔母さんにたっぷりの湯をかけられ、謝られる。いやでもないのに嫌な顔をした。そのうち喉が渇き水を飲む。違う叔母ちゃんにかける。謝ると、優しい笑顔で「いいのよ」と。 さっきの自分の態度は何だったのだろう。叔母ちゃんに謝ろうと思い浴室・脱衣室を探し回った。 おられなかった。  

母は、このいきさつを見ており、帰り道、厳しい顔で問いただした。  素直に認め、「謝ろうと脱衣室に行ったが、もうおられなかった。謝る事が出来なかった」と。母は、優しい笑顔に変わり、それで私の姿を見失ったのだと一言。帰宅して鏡の前で、嫌な顔と笑顔を写していた。そこに父、帰宅して聞く。説明。父は「いい社会勉強になった。良かった。良かった」と。

 

 

 暫くしてテレビで素敵な笑顔の作り方を放映。口尻が上がる事を。それから私はいつも笑顔を。 母は、私のこの顔をけなしだす。 今に、口が裂けて、牙が生えてくる。五百石の大家さんは、いつも怒っていて鬼の様な顔をしていた。死に顔もそうだったと。  そう言われても、私は、この笑顔がすきだった。

 更に暫くしてテレビで人の笑顔・顔付きによって友達関係の雰囲気を変え、人生も変える。と放映していた。 即、母を呼び一緒に見る。常に笑顔でいると友達が、出来その人の人生が、良い方に変わる事がある。笑顔は、口尻が上がっている事とも。

そして母は、お前の顔は素敵な笑顔だったんだ。 と言ってそれから母も笑顔になった

 

 

漫画を見ていると母は、決まって「だから頭悪い」そして「勉強セー」と。父は勉強しろとは言わないで、内容を聞く。継母が子供のいじめ・その逆の内容など話す「誰がいい人か・悪い人かわかるな!お前がどんな人になりたいか前が決めればいい。 良かった・良かった いい社会勉強になった。」と

 

                                                                                                                   

私達の生活の場(お風呂・水洗トイレ)で そう2階の鉄筋建てを新築。隣の人から境界線は、柱の真ん中だからと言われトラブルを避けるため柱の手前で新築。完成。池にコンクリートが入って金魚が死んだと持参。母は金魚を持って金魚屋さんに。同じ物が無ければどんな高くてもいいからと金魚を購入しお詫びを。ところが金魚を殺されたと近所中に知れ渡っている。金魚屋さんの耳に入り、それ以上の立派な金魚を弁償されたと。

そして家の鉄筋建てを利用し寄りかかって自分で納屋を建てる(完全に境界線から出ている)  屋根伝いに家の屋上に上がって新築によっていらなくなった瓦を取っているところを父はみる。   車を購入。

 

 

3・4年生、担当は、誰にでも優しいと評判の曾根先生に変わった

 

私は友達と遊びに出たが雨が、降ってきて、友達は、着せ替え人形で遊びだした。人形遊びは好きでなかったので帰宅。母が言うまま着せ替え人形の顔を描く、そして母が両手を広げ、足をそろえた下着姿の人形を書き切り抜いた。包装紙で洋服を作り着せた。私は気に入り 、色鉛筆を使って洋服を作る。そこへ 姉が帰宅。姉と一緒に作った。ある日遊びに出かけたが素敵な服を着ている人を見て帰宅、服を作りまた遊びに出た。母は、28色の色鉛筆を買ってきた(学校では8色か・12色までしか使えない)。また、素敵な柄の和紙も買って来た。父はミルク飲み人形を買ってきた。「なんでこんなもん買ってきたん」と言って1度も遊ぶことはなかった。

この頃から私のアイデア料理も始まった。市販の巾着料理が夕食に。1つ食べ、2つ目開き中を見てみすぼらしいと言って食べずに母に渡した。すき焼き鍋の次の日、具と汁に分け、具は細く刻み卵を入れ寿司揚げに入れ爪楊枝でとじ、汁の中に入れ煮る。中身は、もう煮えているので直ぐ終わる。きんぴらごぼうの次の日、薄い豚肉でくるみ焼いた。どちらの料理もあまり好きでないが、私は、この料理をきれいに食べた。母は、よく作った。父は「またこれか」と言いながらニコニコしておいしそうに食べた。

 

 

4年生になって 週1回母親の愛情弁当の日が出来た。毎回パン食になる。自分で弁当を作るからと言うとすぐ弁当を買ってきた。そんなある日、おかずの汁がご飯に混ざる。白いヶ所のみ食べる。ジュク飯になっていて食べる事はできなかった(カレーライス・どんぶりはご飯とおかずは別々に食べている。後で胃痛を起こすので)。次回の弁当の日には2段型の弁当箱が用意されていた。 

 

 遠足の日、母が寝る時間を惜しんで私の好きな太巻き寿司を作っていた。出際に、母にバナナ(この時代・高価なもの)を持っていく?と言われ、持って行った。遠足から帰って、先生から呼び出しがあった。「すごく豪華な弁当を持ってきたのね。そしてバナナも」と。母が寝る時間を惜しんで私の好きな寿司を作ってくれた。友達の弁当の中にリンゴとかナシがデザートとして入っている。私はリンゴもナシも大嫌い。バナナはデザートです。決まりはきちんと守っています。先生は、終始ずっと笑顔で聞きながらうなずいていた。この先生は、私の言い分をちゃんと聞いてくれた。 帰宅して母は、居なかった。同級生の男の子が母に告げた事で、すれ違いで先生の元に。そして母は、私がよく料理を作り、毎回弁当を作って頑張っているので、出際にバナナを持って行くように言った事を先生に。先生は笑いながら、私の言い分を認め、ちゃんと決まりを守っていると。  弁当の日、先生が見に来て「本当にあなたが作ったの ?」と。作り方を言うと、頷きながら離れた。次の日にも見に来て「凄いネッ」と。男の子も見に来て「すげー・俺の弁当より豪華だ」と。

姉は中学に私は5年生

姉は、中学に行ってクラス全体が仲良し、親友もでき、バレーボール部にも入り、毎日が楽しそう。家では勉強も頑張る。私はかまってほしくて邪魔を、突っついても相手にされずテレビのボリュウームを最大限に。さすが姉は怒ってコードを抜き振り回す。構ってもらえず床に泣き崩れる。その時、鼻をぶっつけ、かなりの鼻血が出る。傍らに来た姉が背中をさすりながら「ごめんネッ、ごめんネッ」と。嬉しかった。そして、泣きながら、自分でした。罰が当たったと叫んでいた。そこへ父が帰宅。姉は、自分が怪我をさせたと。私は心で・・・・・・・・・・・叫びながら、姉が𠮟られる事になったら本当の事を言わなきゃと。所が父は「わかった。その前に何があったが?」と。  すごいお父さんと感心しながら泣いてごまかした。

 

 

この頃から、毎日、母に𠮟られるようになった。多い時は3回。姉と喧嘩した時、母は、あんた妹だろ、お姉さんの言うことを聞くようにと。素直に謝る。弟(跡取り息子だと両親共に何をしても注意しない)と喧嘩した時、私に姉だろと一方的に𠮟られる。悪くないと反抗的態度をとる。姉と弟と喧嘩をすると私にいつもやっている事だから一緒に聞く様にと。関係ないと物に当たり散らす。矛先は私に。布団にくるまれ紐で縛られた私は、悪くないと喚き続ける。そのまま押し入れに入れられ眠りにつく。 

 

 この年の夏、母・姉・私・弟の4人で海へ。遊んでいるうちに弟の姿が見えず、母は、気が狂った様に「稔~ 稔~」と言って走り回った。何のこともなく弟は、砂遊びをしていた。その時、私がいなくなっても、母は、このように、気違いみたいにならないだろうと思った。

 

 

私の担当の先生は、えこひーきするという評判の中村先生。成績の悪い子を居残りその中にいつも私が入っている。後ろから正解の書いた紙が回ってきて写し帰る。ある雨の日、帰っても遊びにいけないので最後まで残った。一人になった私に帰るようにと。父さん迎えに来るかなと思いながら「先生帰られ」と。先生は、優しい笑顔で丁寧に説明。わかった。うれしかった。それから授業の意気込みが変わった。算数だけは、理解できた。休憩時間、私の居場所が掲示板から自分の席に変わった。他の教科書を開く。家でも他の教科を勉強するが覚えられない。居残りの点数では、なかったが1問、どうしても分からなかった。少なくなった頃、覗くと、先生と目が合った(笑顔)。私が出来る前に習った問題だと言い教えて貰った。それから、居残りになる事は無かった。

 

 

そんなある日、自分の席で本を読んでいる時、椅子を倒され、尾てい骨を打ち付ける。痛みがひどく声も出ない。時間がたつにつれ、痛みが薄れ、なくなる。帰宅して、立ち座り時、傷みがひどい。母は、大げさだと言いながらも、次の日タクシーで学校に来て先生に話し、岩瀬の病院へ。移動中、ずっと大げさな子だ。帰りは、歩いて帰るからと。病院では、レントゲンを撮り、診察。尾てい骨に深い傷があり、立ち座りの時擦れてかなり痛いはずです。痛み止めの注射。その時、私の両脇・足元に3人の看護婦さんが。(私は、もう5年生、1年生ではないのにと思いながら)。私の血管が細くさすと動くらしく何度も刺される。足元にいた看護婦さんが、私の後ろに移動し、失神した私を抱えソファーに。そして帰りもタクシーで。

 

 

両親は、仕事を手伝っている時大事なものを壊しても𠮟ることはない。ある時、移動時、バケツに躓くこと2回。3度目たくさんの豆腐を持って躓き、壊してしまう。父は、苦笑しながら、1回目に躓いた時、片付けていたら失敗しなかったのにと。母も笑っていた。

 

また野村外茂子という新しい友達が出来た。姉のような人でよくおかあさんのお手伝いをしていた。私は姉から卒業することが出来た。この年の冬、結構雪が降った。外茂ちゃんが、屋根の雪下ろしを、弟さんも、私も手伝った。弟さんが、煙突を壊す。お母さんが帰宅。

「姉ちゃんが壊した」と。外茂ちゃんも「自分がした」と。おかーさんは、近所の人の目を気にし何こそ言われると、何度も・何度も叩き続けた。父さん、外茂ちゃんを助けてと心で叫びながら走った。父に、私が煙突を壊したと。以前、隣の家の窓を直された時、あんたとこの煙で汚れると言われ、長い煙突2本組で購入し、煙がかからないようにと長い煙突を取り付けた。その残りの1本を持って行って取付けてきた。帰宅した父は、優しい笑顔で私の頭をなでなでした。嬉しかった。

 

6年の春の運動会、外茂ちゃんが(前例)後ろの方に私は前の方に移動し一緒に走る。帰宅した私に走る私の姿が分からなかったと父は、残念そう。秋の運動会も同様。 心の中で父に謝りながら、私は、走るのが早くなったとごまかした。

 

 

 

幸子の高校時代・アルバイトによる身体障害者に(6)

0私は、高校生時代

高校受験に落ちて、藤園学園(富山私立女子高校)・商業科に入学。下校時、父を見舞って帰った。叔母が、赤ん坊を負ぶって付き添い。

帰宅して、母は、毎日、「血を吐いた。血を吐いた。」とウザイくらい。軽く病院に行ったら。それからも「・・・・・・・・・・・」

「だから 病院に行かれと言っとんにか」と。行ける状況でもないのに。 私は、ひどい娘だった。母は、以前も・その後も 歯医者・病院等に行った事が無い。

高齢者の健康診断に参加。どこも悪くない、健康そのものだと。昔、肺炎を起こした事がありますね。今は完治し、肺にその跡があると。母は、帰宅しそんな病気した事 ないよね。その時、毎日、血を吐いたと言っていた時の事だと思った。

 

 

父、完治し退院する時、まだしばらく酒を飲まないようにと医者から言われたが、退院祝いと言い 酒を飲む。 そして、次の日から家業に精を出す。振り売りしている農家の村川さんから盆栽の楽しみを教わった。店の前に棚を作り、盆栽 6つを並べ毎日 眺め、時には剪定をして満足していた。その中で、お気に入りの盆栽2つのうち、1つが無いと言い出す。暫くして隣の鶴山さん家の下駄箱の上にあるのを見つける。買って来たと言われたが、父は、家のだと。  玄関の戸が、少し空いていたので覗く。松の木も盆栽の鉢も一緒にである。私も、家の盆栽だと思った。

 

数日後、酒を持参で医者のところに行き、一緒に飲んでくる。

そして、毎日肩こりを訴える。肩もみをするが、追っつかない様子。この時、ビメークという肩こりの機械がテレビのコマーシャルで放映。

 

私の人生を左右する事故・身体障害者

製薬会社からアルバイトの依頼が 当園にあり、貼り紙される。父に了解を得る為にビメークを自分で買いたい。

 

アルバイト生は、3人。作業の内容は、ミキサーのスイッチは作業場の外にあり、スイッチを入れてから、材料を入れ攪拌していく。その時は従業員は側にいたが、材料が終了すると 隣の部屋へ移動。 ミキサーは、動いている。いつものことである。ミキサーの上の方にある材料を3人で順番に手で落としていった。数日後、私は、最後に落とした。その時、右手が巻き込まれる。 神経が切れているのか全く痛みがない。周りがパニックに。  私が、電源のスイッチを切って来るように。従業員を呼んできてと。従業員が来て外に出てスイッチを入れ、作業室に。外に出て 再び切る。 ミキサーを逆回し、私の目を隠し手を布で覆い桜橋病院に運ばれた。 車の中では布でくるまれた手を見ながら 元に戻ら無いだろうと思った。

 

手術を受けた5指のうち3指を切断。親指は第1関節・小指は第2関節は、かろうじてつながった。きちんと曲がらない・力が入らない。でも この2指がある事をで字が書けた。

製薬会社から私に見舞金が。 そして義手をつける。

 

母は、私を連れて児童相談所へ行き、頭が悪いことも話す。 知能検査。厚い本を開きいろいろ質問される。 職員から、決して頭は、悪くはない。ちょっと変わってる。障害者というハンディを背負うことになった事をしっかり理解しながら 心境は、障害者で、普通の高校生だと思っています。  母は、喜びこの事を姉に話す。

 

後日 母は、高校に行き、商業科から普通科に代われないか相談。教科が全然違うので移動は、無理です。と  来年、普通科1年生になると決めてくる。

 

私は、普通科1年生。義手の事をよく知っている同級生が、指がないと隣席の友達に教えていた。それから間もなくして彼女のお母さんが亡くなり、妹弟の面倒を見るという事情で退学する事になった。 「罰が当たったんだ」と思うとともに、嬉しくは、なかった。私の父は、入院し、母は、血を吐きながらも私を高校に。  なぜ彼女のお父さんは、娘が、が学業を続けられるよう考え無いのだろうかと思った。

もう1人、いつも「とっぺ(豆腐 )臭い」と言いながら、ニコニコして私の横にに来るクラスメートがいた。事情を話すと謝り「私、この臭い大好きなのいつも側に来ていい?」と言って、言いかたも、変わった。

 

姉は、薬剤師の私立大学の入試試験に合格。所が、入学金・授業料が高い。父の怪我は、交通事故扱いではない。豆腐の売上も少なかった。父は、姉に 今年は大学を諦めるよう話す。

母は、納得出来ず、幼友達の妙信さんを頼り東京へ(鶴見学園の偉い人に仕えている)入学の許可をもらってくる。この短大は幼稚園教諭・福祉の資格がもらえる。

姉は、5月の末から入学。入学金・授業料・姉の生活費は、私の見舞金から。 

 

 姉は、学校の様子を楽しそうに話した。その中で 私は、特に実習の話に興味をもった。

そして姉は、卒業して、父に 黒部学園(精神薄弱者施設)の仕事への話があった。姉もそんなふうになってはと思い 断った。(私がこの職業についた時、私に話した)

幼稚園に勤務。必要に駆られピアノを購入。

 

母は、姉の中振り袖を買ってくる。しばらくして、私にも、ピンクの花柄の振り袖を買ってきた。私は、姉の振り袖の方が好みだったので、着ないから返してきてと。(以前に父が私にレインコートを買って来た時、好みでないと 1度も手を通さなかった。近所の人にあげ、喜ばれた)

 

高校生3年生の時、富山駅の階段で下から上つてくる人に  私を指差し「あの子  手ない」と。皆の視線を浴びる。  そう 私は、障害者なのだ。 次の日、先生に相談。

姉の学校の話をして、私は、ピアノを弾けない事も。社会福祉学科を進められた。

 

帰宅して 私は、父に短大に行きたいと。父は、頭が悪い・勉強は嫌いなのにと。奥から母が出て来て「この子初めて 短大に行くといった。今までそんな気が無かった。でも今は行きたいと言っている。1人大学に行くなら3人大学に、1人大学に行かないのなら3人共に大学に行かない。姉弟で差をつけてはいけない。この子大学に行くと言った」と。この時、この人も私のお母さんだったのだと思った。

18才 の時 車の普通免許の資格をとる。

      虫歯ができ、歯科医院へ。乳歯なので 生えてくるかもと 抜かれるの     

      のみ。生えてこなかった。

 

 

 

 

幸子の中学時代・父は、交通事故で脳内出血に・・その真相は ?(5)

    私は、中学生になって

私は、小学校を卒業し、北部中学校に入学。私が、女らしくなってほしいという母の希望もあって、言うがままに、華道部に入った。でも 私の性分に合っていない事から花だけを持って帰宅。1年半続いたある日、男の子と喧嘩し、持っていた花束で数回、叩きつけた。殆どの花びらが、散った。花を見て諦めた母は、華道部をやめてもいいと。

1週間後、教室に行きその旨を先生に話す。部費はもう支払われているので、今月分の2回は、参加したらといわれ、参加。 生け花の基本的な事を教えてもらい生けた。思ったより上手に生けた。先生に褒められ、1本の花の向きを変え、同じ場所に。 帰宅して、初めて生け、床の間に。両親にすごく褒められた。3年生まで、真面目に参加。最後の日、指導の先生から「筋がいい。続けたほうがいい」と。

高校時代も続けた。この時も、同じことを言われた。

運動部は、動く範囲の少ない卓球部に入部。球拾いばかり。それから練習にはいる。遅くなると母は口うるさくなり、早々に退部する。

 

この年の冬豪雪で、2階から出入りし、除雪車は、動かなかった。 燃料がなくなり、両親・姉・私の4人は、岩瀬まで 買い出し。父は、先頭に立って行った。帰りは、父は、一斗缶3っ・母は 2つ・姉と私は、1つをかずいた。重かった。再び、父が先頭に立って歩いた。途中、バランスが崩れ、尻もちをつく。起きらない。父は、弓形に雪をかき分け私を起こし、「ごめんナ、もうちょっと頑張って・・・」と言って 戻る。父さんは、凄いなぁ

 

私は中学2年の中頃の事。   東富山交番の中田という男を筆頭に 数人の警察官と共に サンヨウ電気・開業医(2人で支払い) 毎晩 桜木町へ飲みに行っていた。 父は、サンヨーさんと友達になり、売上金を持って殆ど毎晩、桜木町へ飲みに行くようになった。以前から友達である、警察官の荒瀬さんを誘うが、断られる。

 

明日の注文が多く、母は働き働きずくめ、夕食準備している時、父は酒を飲みご機嫌よく帰宅。父を咎めるように、「お母さんが今まで仕事をしていた」と。 それでも機嫌よく手を上に振り上げた時、私のほほに当たる。両親、口喧嘩(母の言い分は、父が遊んできたことではなく、私を叩いた事。父は、叩いたつもりはない。私は、痛くもなかった)。その時私は、自分が母に𠮟られる事より、両親の喧嘩は、見たくない。2度と口出しは、しないと思った。

 

 

私は、3年 後半。 受験勉強で大事な時の事 、事故の当日、交番の中田は、用事があるからと不参加。   父の車を 乗り回していた。  車がないので サンヨーさんの車に父も一緒に便乗、 数人でふざけていて 車から転げ落ちる。

市民病院に入院。脳内出血と診断・手術・1週間程入院。 完治したと退院させられた。しかし父は、頭痛を訴え食欲全くなく、豆乳のみ食す日が  続いていた。交番の中田が時々様子を見に来ては、「治った。ほかの病院に連れていくな。連れて行ったら きくちゃせん」と言って母を脅していった。  

 

1ヶ月半程 経って 母の妹が、頭の中の病気やけがは怖い。日赤病院で治った人がいた。と 毎日、父の様子を見にきていたサンヨーさんが母と一緒に日赤へ。ドクターは、父の顔を見るなり、「うちの病院では、無理。すぐ 県立中央病院に」と。 母は、どうしても助けたいから石川県にある 医薬大にと。脳内出血の手術の出来る先生は、日本に4人しかいない時代。その中の1人が、県中に。

日赤からもう連絡が言っていたらしく。 医者と移動式ベット゛が待っていて、医者から市民病院のカルテが無ければ手術ができないと。 市民病院へ。医者から治ったと。母は、治っていない。県中の先生が 助けると手術室で待っている。手術ができないで死んだらこの事を公にすると。カルテをもらって県中へ。 目を通した医者は、手術室に。

 

手術後、医者から、コップ1杯程の腐った血が脳にじかに触れていたと。更にカルテをテーブルに何度も、何度も叩きつけ「これが治ったのか! これが治ったのか! 」と。県中のドクター は、すごく憤慨されていた。

 

姉は、高校2年生で、軽四の車の免許を持っていた。学校に行く前に、商店・不二越・三菱アセテートへ配達し、毎日遅れて学校に。この様子を見ていた高校の先生が、いたらしく厳しい学校でありながら 免除された。

 

初めての英語。1年は、文法が中心で成績は、悪くはなかった。(英・数・国)の成績をもとにクラス分けが行われた。私は(Aクラス)に。そして先生が、私に「数学ばっかり勉強せんとほかの教科も 勉強せんと」  同小学校出の男の子より、「だら(馬鹿) にしとったがに」と。 帰宅して、先生に言われた事を父に話す。父は、「いつ数学の勉強をしとんがよ ? 」数学だけは、授業だけで理解できたので、勉強はしたことがない。   2年生になって英語は単語も多くなり、覚えられず、成績も下がっていった。