父、会社を辞めて東富山寿町の4軒長屋の真ん中を購入し豆腐屋を経営(4)

東富山寿町の4軒長屋の真ん中を購入し、2月の初め、両親・幸子・弟の4人転居し、豆腐屋を経営。姉は、小学2年、母の実家から通う。豆腐屋の仕事は朝2時に起き、父は、前日、水に浸していた大豆の水切り、石すりをし、大きな鍋に移し煮込む。それを越し豆乳とおからに分ける。絹豆腐の型(40㎝×20㎝・高さ20㎝程のステンレス)数箱と、1メートル程の大きな桶に豆乳とにがりを入れて平棒で混ぜ、棒を立てたまま流れが止まるまで待つ。静かに棒を上げる。固まるまで待つ。絹豆腐完成、水槽に離す。木綿豆腐の型に蒸し布を広げ柄杓でスクって入れ布でくるむ。蓋をする。数箱作り重ね、重石をのせる(後程ジャキに)。水槽の中の絹豆腐をカット。

 

母は、当初、身ぎれいな服の出で立ちで働いていたが、飛び跳ねる油で汚れがひどい為作業着をきるようになった。油揚げ作り、 フライヤーに木綿豆腐を入れて台所に行き御飯炊き。店に戻り、 油揚げを上げ、再び木綿豆腐を入れおかず作りに。私が起きる頃に来て同じようにして布団たたみ、布団上げをしていく。私は母の大変さは、気づかなかった。 

 

 父はバイクで水野商店・不二越の会社・三菱アセテートへ卸した後、毎日、農家へ振り売り、(4ヶ所・4日ごとに)、全く売れなかった。

母は、がんもどき作り。昔ながらのがんもどきは、姉も私も大好きだった。木綿豆腐をこわし、とろろ芋・ヒジキを入れ、がんもの形に成形し、銀杏(自家用・海老)を入れる。最初は、油の中に成形したものを並べ入れガスのスイッチを入れ温度を上げる。違う温度で3回揚げる工程があり、まして、長芋を入れる事によって手にかゆみもでき大変だと思う。ずっと後になってがんもの元(粉)が出来、楽になる? 「がんもの作り方変えた?」と言っていらないと母に。それから家で食べる分は、昔ながらの作り方に戻った。

 

美味しい水が作る美味しい豆腐

豆腐作りは、原料の大豆と水によるものです。  食べ物の製造業は、保険事務所に水を提出しなければならない。そこで4番目に美味しいとお墨付きが出た

テレビ番組で、各県の俳優・女優さん(富山県では八尾の柴田理恵さん)が、水を持ち込みナンバーのついた水を飲み、富山県は、ダントツ1位だった。

 

両側に立ち並ぶ4軒長屋の真ん中をゆっくり歩いたり、走ったり。私の進む速度にしたがって、後ろに流れていく。結構面白い。そんなある日、草むらでトンボをみつける。後日、母から糸をもらって草むらへ。トンボを捕まえ糸につなぎ飛ばし遊ぶ。弱ったトンボを連れ帰り裏戸の鍵につなぎ、トイレに。用を足し、戻るとカエルがトンボを食べ口からトンボの羽が出ていて、嚙み 砕いているカエルの喉元が焼き付いている。可哀想なことをした。 

2度と生き物で遊んではいけないと反省。

3月末、姉は、2年生を終了し、母の実家から4軒長屋へ。  

母の大変さに気付いた姉は、親孝行したいと思い、私に「布団たたみをしよう」と。一緒に布団たたみを、母は、嬉しそうに「助かる・助かる」と言って布団上げをして店の方に

私達のやる事も早なり、布団上げを。私が押し入れの上に上り、姉が布団を持ち上げ、私が引っ張り上げる。時には、取り損ね姉が布団をかぶり てんぐりがえる。 又私が布団と一緒に姉の上に落ちて大笑い。毎日が楽しい。 2人早く起き、私は、布団たたみ・姉は、米とぎ。2人で布団上げ、朝食準備。味噌汁を作り、昨夜のおかずを並べる。 少ない時は、卵焼き・お浸し等を作った。

姉、大広田小学校に転校3年生・私は入学

 

4月姉が転校し3年生に、私は入学 1年生に

姉は、下校していつも母の手伝いを洗い物、弟のオムツがたまると川へ洗濯に、その都度小遣い(100円)を。私は仕事を支持される前にランドセルを入り口に放って外へ。小遣いが欲しい時は売り上げから5円?10円玉を取ってお店に。1度母につかまり洗い物をさせられ100円を貰った。いらないのにと思いながら受け取りアイスクリームを買って食べた。90円じゃまでしかたない。売上金の入ったかごへ入れた。(週に1・2回、5円か10円あればいい)。

 

春の運動会・母の作った太巻き寿司を持って参加。100m走で私は、ビリでゴール。夕食時、運動会で私を見つけるのは楽だ。1番 後さえ見ていればいい。最後から2番目から、ずっと遅れて走っている。 弁当箱をかずいて、お尻をフリフリ走っているアヒルそのものだった と。そして私は、こんな父は大好きになった。又、走るのはすごく遅いということを認識する。 それから父の酒の話のネタが増えた。

 

農家へ降り売りしてきた父が帰宅し、1軒の家が豆腐を買った。これでいける。と張り切っている。

しばらくして大豆を1年分購入、置き場所がないので豆屋さん倉庫に。

 

それから 「家は 貧乏だけど 」と言って、テレビを購入。まだテレビのない時代、毎日18人程の人が見に来られた。更に暫くして、家 貧乏だけど母さん大変だからと洗濯機を購入。まだ脱水機はなく、2つのローラーの間に衣類を通し絞る。(数年後、脱水付きの洗濯機が、売り出されると即購入・古いのは、母の妹夫婦のところへ、叔母は、まだ、タライで洗濯している時代。リッチな生活になったと)。   仕事に必要だから貧乏だけど と言って電話を入れる。母方の祖母が細筆で字を書いていた。すごく上手だなあという記憶にあった。家の隣の隣で、習字教室をしている。私も習いたかった。家は貧乏だから言えず諦める。

 

姉と私は、育ち盛り、服を買いに行けないので、近所の内山さんに布・縫製のすべてを任せて作ってもらっていた。柄・デザイン共に 好みでは なかった。姉のおさがりを着るので作らないでと。いつもお下がり なので、母は、年に数回大和百貨店に連れて行った。私は、値段を見ないで選ぶ。高かったのか、違った服を 持ってくる。お下がりでいいからと言うと 仕方なく高い物を購入。  私は、お金を出すのなら、気にいった物をというものの 考え方です。帰り際エレベーターのまえで

 

 

成長盛りの私達の服を買いに行く時間がない。近所の洋服の仕立てをしている人に依頼。生地もデザインもお任せ。どちらも好みではない。姉のお下がりでいいから私のは、作らないでと。姉のおさがりを着ていた。年に数回、大和百貨店・子供服売り物に連れて行かれました。値段を見ずに選んだ服は 高かったのでしょう。別の服を持って来てこれにしたら?と。結局、私の選んだ服を購入。私は、お金を出すのであれば、気に入った物をというものの考え方です。 帰り際、エレベーターの前でてんぐりがえっている男の子がいた。初めての事で母に聞く。欲しい物があっての行為だと知る。

 

そんなある日、学校の行き際、持ってくるよう言われた新聞のチラシを思い出し母に聞く。母は、揚げ物をしながら、「そこにある棚を左に行ってそこにある。」そこには大豆しかない

何度聞いても「そこそこ」と言うのみ。父は長靴をはいたまま入ってきて往復ビンタ(すごく痛かった)。母は、慌てて入って来て棚の上から出してくれる。私は、暴力をふるった父より,母に不満を持った。泣きはらした顔で学校に行き男の子にからかわれた。

学校を終え帰宅。棚の前に立ち 棚の上から2段目、左のほうにあると言われればわかるのに。  ある時、知らない叔母ちゃんが「〇〇さん家 分かる?」と聞かれ、自分なりに分かり易く説明した。それでも心配で後ろからついていった。叔母ちゃん家にたどり着き私のそばに来てすぐに分かったとほめ、お礼を言われた。

 

 

担当の先生を含むクラス全員で姉へのいじめ

   生徒の話を聞き入れない、怪我をしてもむしする

姉がクラスの友達皆に、にいじめられていると知った私のクラスの男子が授業の休憩時間に見に行っては、姉が泣いていたと私に知らせに来る。そんなある日、母がオムツを洗ってきてと言ったところ姉は顔を曇らせた。ひょっとしたらと思い私は、棒を持って姉についていった。案の定 数人の男の子が、洗濯している姉を突っつき川に落とそうとしたり、川上で小便をしようとする男達に 棒を振り回し追っ払った。毎回、姉について行った。そんなある日、それでもおしっこをしようとしている男の尻に力を入れ叩きつけた。男の子「酷いことするの」と。棒を振り上げ「ひどいのは誰かそこに隠れている者出てこい」と、2人 出てくる。叩いた男に溜まっているおしっこをかけるよう指示。3人共 もういじめないと。

 

 

数日後、姉への意地目は友達だけではなかった。先生も一緒になって意地目ていた。姉のランドセルを先生が、2階の窓から投げつけた所を見たと友達から聞く。

父に今までの事を話す。長靴をはいたまま学校に行き、職員室で他の先生もいる中、父は自分の娘が気に入らことは分かった。無視していい。授業についていけなくいい無視していい。他の生徒と一緒になって意地目るな。まして2階の窓から娘のランドセルを投げつける事はするなと・・・・・・・・・・・

帰宅して私にいきさつを話し、今後の様子を教えてほしいと。それから いじめがなくなりクラスの男子友達が見に行かなくなった。父に報告。

 

 

体育の時間、男女組み合わせで鬼ごっこ、私の相手は走るのが早く負けず嫌い。父は、私は、走るのは、遅いと何度も酒を飲みながら言っている。先生に相手を変えてほしいと頼むが、聞き入れてもらえず、引っ張りまわされ早々にこける。先生に邪魔だから どくようにとせかされるが痛くて動けない。自分で動くからと言うも無理矢理抱きかかえられ片隅へ。私は鬼ごっこの様子を見て、色々な顔・顔・顔・面白いと思った。終了しびっこをひき教室に。

保健室の先生が来て足を見せるようにと。治ったというもズボンをまくり、傷口を見て 保健室できちんと処置をと医務室へ。その時担当の先生が連絡されたと思った。消毒し包帯を巻きながら、こんなにひどいのに担当の先生知らないの ?と聞かれた。先生ではないのだと知った。私は、先生というのは、気に入らないといじめる。話しを聞かない。対処しない。私の中に先生は信用できない、好きになれない存在となった。これから 絶対に近寄らない、話もすることはないと。

そして数人の男の子に抱きかかえられた事でからかわれるようになった。

それから胃痙攣をおこし、痛みがひどく転げ回り、嘔吐、そして胃痛に変わるその日は、食事は、食べられない。好き・嫌いが多いのに更に魚料理も食べられなくなった。(食した後、生臭み上がってきてすべて嘔吐)。食べ物がなく、そのまま就寝する事もある。夜中じゅう、腹の虫が泣いていたらしい。それから常時、バナナが用意されていた。

 

 

また休憩時間、自分の席から後ろの掲示板に変わった。寄りかかり友達の動きや顔の表情を監察するようになった。私の横に鈴木さんが立ってしばらくして「とっぺ臭いからあっち行かれ」と。そして何度も「アー臭い臭いとっぺ臭い」と。私も負けてはいない。「豚・豚 白豚」と。そこへ数人の女子が来て私を非難。言い訳を。「本当のことだ。アーとっぺ臭い」と言って鈴木さんを連れて行った。居場所が確保でき満足。そして目はそのグループに。

鈴木さんの手が止まることなく動き、しぐさは、すごくかわいい・愛くるしいと思った。白豚と思った事は、撤回。

 

 

12月の冬、ひどい風邪をひく。喉 ちんこにへばりつくからと薬の服用拒否。往診に来られがたドクターの腹をけって注射は痛いからと逃げ回った。一向に治らない。母は、夕食時中、毎回 口説く。父は、自分が飲んでいる赤ワインを体で隠し廊下に私を連れていき飲まされる。 頭の中が回っている。疲れたのかなと思って寝る。次の日、体調良好。毎日飲まされた。(私が、30代のころ20歳未満の子供が酒を飲むと頭が、悪くなって、モノを覚えることができなくなる。とテレビで放映。だから頭が悪いのだと納得した。)  そして3人弟姉妹の中で私が1番  酒が強くなった。

 

 

私は小学2年生、担当は、くのり先生。 お子さんを同町内の放送局と噂されているお宅に預け、私の事を頭が悪い、勉強は全然出来ないと言った事から、近所中、学年中に広まった。 

隣のおじさんから母の鼻先で「頭が悪く勉強出来がんだって」とせせら笑われた。それからいつも母は、私の顔を見ると「勉強セー・勉強セー」と言うようになった。

学校で男の子にもからかわれ馬鹿にされるようになった。

 

ステキな笑顔と社会勉強

母と銭湯にいき遊びたい為、自分で体を洗うと。次回には長い健康タオルを用意していた。そして人に迷惑をおかけないように、湯をかけられるのを嫌う人がいるので気を付けるようにと約束し遊んだ。

知らない叔母さんにたっぷりの湯をかけられ、謝られる。いやでもないのに嫌な顔をした。そのうち喉が渇き水を飲む。違う叔母ちゃんにかける。謝ると、優しい笑顔で「いいのよ」と。 さっきの自分の態度は何だったのだろう。叔母ちゃんに謝ろうと思い浴室・脱衣室を探し回った。 おられなかった。  

母は、このいきさつを見ており、帰り道、厳しい顔で問いただした。  素直に認め、「謝ろうと脱衣室に行ったが、もうおられなかった。謝る事が出来なかった」と。母は、優しい笑顔に変わり、それで私の姿を見失ったのだと一言。帰宅して鏡の前で、嫌な顔と笑顔を写していた。そこに父、帰宅して聞く。説明。父は「いい社会勉強になった。良かった。良かった」と。

 

 

 暫くしてテレビで素敵な笑顔の作り方を放映。口尻が上がる事を。それから私はいつも笑顔を。 母は、私のこの顔をけなしだす。 今に、口が裂けて、牙が生えてくる。五百石の大家さんは、いつも怒っていて鬼の様な顔をしていた。死に顔もそうだったと。  そう言われても、私は、この笑顔がすきだった。

 更に暫くしてテレビで人の笑顔・顔付きによって友達関係の雰囲気を変え、人生も変える。と放映していた。 即、母を呼び一緒に見る。常に笑顔でいると友達が、出来その人の人生が、良い方に変わる事がある。笑顔は、口尻が上がっている事とも。

そして母は、お前の顔は素敵な笑顔だったんだ。 と言ってそれから母も笑顔になった

 

 

漫画を見ていると母は、決まって「だから頭悪い」そして「勉強セー」と。父は勉強しろとは言わないで、内容を聞く。継母が子供のいじめ・その逆の内容など話す「誰がいい人か・悪い人かわかるな!お前がどんな人になりたいか前が決めればいい。 良かった・良かった いい社会勉強になった。」と

 

                                                                                                                   

私達の生活の場(お風呂・水洗トイレ)で そう2階の鉄筋建てを新築。隣の人から境界線は、柱の真ん中だからと言われトラブルを避けるため柱の手前で新築。完成。池にコンクリートが入って金魚が死んだと持参。母は金魚を持って金魚屋さんに。同じ物が無ければどんな高くてもいいからと金魚を購入しお詫びを。ところが金魚を殺されたと近所中に知れ渡っている。金魚屋さんの耳に入り、それ以上の立派な金魚を弁償されたと。

そして家の鉄筋建てを利用し寄りかかって自分で納屋を建てる(完全に境界線から出ている)  屋根伝いに家の屋上に上がって新築によっていらなくなった瓦を取っているところを父はみる。   車を購入。

 

 

3・4年生、担当は、誰にでも優しいと評判の曾根先生に変わった

 

私は友達と遊びに出たが雨が、降ってきて、友達は、着せ替え人形で遊びだした。人形遊びは好きでなかったので帰宅。母が言うまま着せ替え人形の顔を描く、そして母が両手を広げ、足をそろえた下着姿の人形を書き切り抜いた。包装紙で洋服を作り着せた。私は気に入り 、色鉛筆を使って洋服を作る。そこへ 姉が帰宅。姉と一緒に作った。ある日遊びに出かけたが素敵な服を着ている人を見て帰宅、服を作りまた遊びに出た。母は、28色の色鉛筆を買ってきた(学校では8色か・12色までしか使えない)。また、素敵な柄の和紙も買って来た。父はミルク飲み人形を買ってきた。「なんでこんなもん買ってきたん」と言って1度も遊ぶことはなかった。

この頃から私のアイデア料理も始まった。市販の巾着料理が夕食に。1つ食べ、2つ目開き中を見てみすぼらしいと言って食べずに母に渡した。すき焼き鍋の次の日、具と汁に分け、具は細く刻み卵を入れ寿司揚げに入れ爪楊枝でとじ、汁の中に入れ煮る。中身は、もう煮えているので直ぐ終わる。きんぴらごぼうの次の日、薄い豚肉でくるみ焼いた。どちらの料理もあまり好きでないが、私は、この料理をきれいに食べた。母は、よく作った。父は「またこれか」と言いながらニコニコしておいしそうに食べた。

 

 

4年生になって 週1回母親の愛情弁当の日が出来た。毎回パン食になる。自分で弁当を作るからと言うとすぐ弁当を買ってきた。そんなある日、おかずの汁がご飯に混ざる。白いヶ所のみ食べる。ジュク飯になっていて食べる事はできなかった(カレーライス・どんぶりはご飯とおかずは別々に食べている。後で胃痛を起こすので)。次回の弁当の日には2段型の弁当箱が用意されていた。 

 

 遠足の日、母が寝る時間を惜しんで私の好きな太巻き寿司を作っていた。出際に、母にバナナ(この時代・高価なもの)を持っていく?と言われ、持って行った。遠足から帰って、先生から呼び出しがあった。「すごく豪華な弁当を持ってきたのね。そしてバナナも」と。母が寝る時間を惜しんで私の好きな寿司を作ってくれた。友達の弁当の中にリンゴとかナシがデザートとして入っている。私はリンゴもナシも大嫌い。バナナはデザートです。決まりはきちんと守っています。先生は、終始ずっと笑顔で聞きながらうなずいていた。この先生は、私の言い分をちゃんと聞いてくれた。 帰宅して母は、居なかった。同級生の男の子が母に告げた事で、すれ違いで先生の元に。そして母は、私がよく料理を作り、毎回弁当を作って頑張っているので、出際にバナナを持って行くように言った事を先生に。先生は笑いながら、私の言い分を認め、ちゃんと決まりを守っていると。  弁当の日、先生が見に来て「本当にあなたが作ったの ?」と。作り方を言うと、頷きながら離れた。次の日にも見に来て「凄いネッ」と。男の子も見に来て「すげー・俺の弁当より豪華だ」と。

姉は中学に私は5年生

姉は、中学に行ってクラス全体が仲良し、親友もでき、バレーボール部にも入り、毎日が楽しそう。家では勉強も頑張る。私はかまってほしくて邪魔を、突っついても相手にされずテレビのボリュウームを最大限に。さすが姉は怒ってコードを抜き振り回す。構ってもらえず床に泣き崩れる。その時、鼻をぶっつけ、かなりの鼻血が出る。傍らに来た姉が背中をさすりながら「ごめんネッ、ごめんネッ」と。嬉しかった。そして、泣きながら、自分でした。罰が当たったと叫んでいた。そこへ父が帰宅。姉は、自分が怪我をさせたと。私は心で・・・・・・・・・・・叫びながら、姉が𠮟られる事になったら本当の事を言わなきゃと。所が父は「わかった。その前に何があったが?」と。  すごいお父さんと感心しながら泣いてごまかした。

 

 

この頃から、毎日、母に𠮟られるようになった。多い時は3回。姉と喧嘩した時、母は、あんた妹だろ、お姉さんの言うことを聞くようにと。素直に謝る。弟(跡取り息子だと両親共に何をしても注意しない)と喧嘩した時、私に姉だろと一方的に𠮟られる。悪くないと反抗的態度をとる。姉と弟と喧嘩をすると私にいつもやっている事だから一緒に聞く様にと。関係ないと物に当たり散らす。矛先は私に。布団にくるまれ紐で縛られた私は、悪くないと喚き続ける。そのまま押し入れに入れられ眠りにつく。 

 

 この年の夏、母・姉・私・弟の4人で海へ。遊んでいるうちに弟の姿が見えず、母は、気が狂った様に「稔~ 稔~」と言って走り回った。何のこともなく弟は、砂遊びをしていた。その時、私がいなくなっても、母は、このように、気違いみたいにならないだろうと思った。

 

 

私の担当の先生は、えこひーきするという評判の中村先生。成績の悪い子を居残りその中にいつも私が入っている。後ろから正解の書いた紙が回ってきて写し帰る。ある雨の日、帰っても遊びにいけないので最後まで残った。一人になった私に帰るようにと。父さん迎えに来るかなと思いながら「先生帰られ」と。先生は、優しい笑顔で丁寧に説明。わかった。うれしかった。それから授業の意気込みが変わった。算数だけは、理解できた。休憩時間、私の居場所が掲示板から自分の席に変わった。他の教科書を開く。家でも他の教科を勉強するが覚えられない。居残りの点数では、なかったが1問、どうしても分からなかった。少なくなった頃、覗くと、先生と目が合った(笑顔)。私が出来る前に習った問題だと言い教えて貰った。それから、居残りになる事は無かった。

 

 

そんなある日、自分の席で本を読んでいる時、椅子を倒され、尾てい骨を打ち付ける。痛みがひどく声も出ない。時間がたつにつれ、痛みが薄れ、なくなる。帰宅して、立ち座り時、傷みがひどい。母は、大げさだと言いながらも、次の日タクシーで学校に来て先生に話し、岩瀬の病院へ。移動中、ずっと大げさな子だ。帰りは、歩いて帰るからと。病院では、レントゲンを撮り、診察。尾てい骨に深い傷があり、立ち座りの時擦れてかなり痛いはずです。痛み止めの注射。その時、私の両脇・足元に3人の看護婦さんが。(私は、もう5年生、1年生ではないのにと思いながら)。私の血管が細くさすと動くらしく何度も刺される。足元にいた看護婦さんが、私の後ろに移動し、失神した私を抱えソファーに。そして帰りもタクシーで。

 

 

両親は、仕事を手伝っている時大事なものを壊しても𠮟ることはない。ある時、移動時、バケツに躓くこと2回。3度目たくさんの豆腐を持って躓き、壊してしまう。父は、苦笑しながら、1回目に躓いた時、片付けていたら失敗しなかったのにと。母も笑っていた。

 

また野村外茂子という新しい友達が出来た。姉のような人でよくおかあさんのお手伝いをしていた。私は姉から卒業することが出来た。この年の冬、結構雪が降った。外茂ちゃんが、屋根の雪下ろしを、弟さんも、私も手伝った。弟さんが、煙突を壊す。お母さんが帰宅。

「姉ちゃんが壊した」と。外茂ちゃんも「自分がした」と。おかーさんは、近所の人の目を気にし何こそ言われると、何度も・何度も叩き続けた。父さん、外茂ちゃんを助けてと心で叫びながら走った。父に、私が煙突を壊したと。以前、隣の家の窓を直された時、あんたとこの煙で汚れると言われ、長い煙突2本組で購入し、煙がかからないようにと長い煙突を取り付けた。その残りの1本を持って行って取付けてきた。帰宅した父は、優しい笑顔で私の頭をなでなでした。嬉しかった。

 

6年の春の運動会、外茂ちゃんが(前例)後ろの方に私は前の方に移動し一緒に走る。帰宅した私に走る私の姿が分からなかったと父は、残念そう。秋の運動会も同様。 心の中で父に謝りながら、私は、走るのが早くなったとごまかした。