父・藤井ハルの養子・母と結婚(3)

高城米雄は、藤井家の養子になり、叔母は、名古屋の店から仏壇と仏像を持参。それから 実家を出て、同じ立山町五百石の他人の屋根裏部屋を借り移り住んだ。米雄・中川キクイと結婚。叔母・米雄・キクイの三人家族は、父の仕事は、収入の少ないペンキ塗りをしてギリギリの生活を送っていた。叔母は、お金に困った時、仏壇を売っても、仏像は、藤井家の家宝として絶対に手放さないようにと。ところがお参りに来られた何人ものお坊さんが素晴らしい仏壇ですねと言うことを私は耳にしています。

そして初めての子 姉が生まれた。父は、辞書を引き時間をかけ、佳美と命名。ところが、2番目に生まれた私の)時は、「又 女か?」と言って海へ釣りに行ってしまった。そして私は、父に抱かれるということもなかつた。祖母は、「この子は、幸せ薄い子だ。せめて名前だけでも幸せに」と幸子と命名。その後、間もなく叔母が、亡くなった。

そんなある日、雨が降りペンキ塗りの仕事が出来ず、昼間から酒を飲んでいる時、母の父親が来て、何かを言ったのでしょうか?父は手にしていた盃を投げつけた。タンスに当たり、傷をつけた。と

 

 

祖父は、何も言わず自宅へ帰った。数日後、滑川での仕事と住まいを決め、仕事を変わらないかと。父は即代わると言って引っ越しの準備。五百石から滑川上小泉までリヤカーで引っ越し。 

会社に勤務。それから毎日朝早く(姉・私たちが起きる前)から、釣竿を持って出勤。釣りをしてから会社へ、終えてパチンコ店へ、出た・出た・出た。それは父の煙草に、私たちのおやつに、世話になった人へのお礼の品にかわった。会社の同僚が、負け父の玉を使ってひと遊び。後ほど父に返済。儲けさせてもらった玉だからいらない。これからも使ってもいいと。(父は、会社を辞めた数年後、パチンコ店が倒産、数十万円を持って挨拶に。それ以上に儲けさせてもらっただからいらないと

それから父は、労働組合の委員長に。会社の社宅が空き、藤井村に引っ越し5つ下の弟が生まれた。初めての男の子、父は喜び、辞書を引き、時間をかけて稔と命名。 

「新採で頭が悪く、仕事もできないのに高校に出たからとおらより給料がよかった。更に出世した」と。父は、胃潰瘍 になり、母方の病院に入院。完治・退院が決まって医者から「なまくら病だ。朝早くから仕事をすれば治る」と。そして豆腐屋に。

ずっと後から分かった事だが、父は出世者に名前があがっていたらしいく、後釜もなく会社としても困ったらしい。